ブロークン・フラワーズ

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「ブロークン・フラワーズ」
 ジム・ジャームッシュの長編最新作。05年のカンヌ映画祭のグランプリ作品。
映画の可能性と多様性をみせてくれた快作である。
 物語は、単純で悠々自適のドン・ファン(ビル・マーレー)が突然来たピンクの
元恋人からの手紙に自分に息子がいることが書かれていて、その息子と
女友達を探しに行く旅に出る。しかし心当たりの五人の内一人が亡くなっている
ので、四人に花束を持っていくがどれも肩透かし。最後に現れるバックパッカー
の息子らしき青年(マーク・ウェバー)にも逃げられる・・・・
 久々にジャームッシュらしいユーモアとアイロニーに満ちたしみじみとした
映画になっていた。
 「ストレンジャー・・・」の原点に返ったように彼本来のすれ違いのコメ
ディーを充分大人になってむしろ初老に向かう人間の人生を見つめる
諦観として描いて、みずみずしい作品になった。
かれの映画がいわゆるハリウッド映画と一線をかくしているのは、その製作
スタイルによる寡黙さもあるだろうが、映画をどう捉えているか、が他と違う
ところだと思う。
 ぼくは、いつも思うのだが彼のつくる画面が「間や余白を演出して静謐だ」
という印象は、映画を何によって創ろうとしているかでその出口が決まって
くる。つまり彼は映画を時間として捉えている、ことに重きを置いているという
ことである。一つの画面に主人公が映っていて、ほぼ同ポジて゛暗転したり
カットつなぎでドンがソファに坐っていたのが眠りこんでしまったりとか、
或いはドーラ役のフランセス・コンロイと現在の夫との間で夕食をとら
なければならなくなったドンがテーブルの真ん中で困りきった顔に
なっていく過程をじっとカメラが待っている。
 時間を切り取るのが映画だという基本をずっと正面から追及して
いるのがジャームッシュの姿勢で、これによって人間の滑稽さを切り
出しているのがジャームッシュ的なのである。
 彼の映画の面白さは、これにつきる。映画評論家(川口敦子や
滝本誠など)は、字数稼ぎにわかったような判らないようことを
ジム・ジャームッシュとなると難しく書いているが、本来のジム・
ジャームッシュは、コメディ作家である。
 すれ違いをキーワードにすれば、今回の映画も一気にとても身近に
見えてくる。
大金を偶然手にした若者が最後に従兄妹の娘と勘違いで飛行機
に乗って入れ違いになるラストの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」
しかり、今度の「ブロークン・・・・」も最盛期のドンファンだったら、気にも
かけない息子の存在も少し年をとったドンファンは、気になり一様探し
にいくが、どれも違いそれぞれの元恋人はそれなりの人生を自分なんか
いなくてもしっかり生きている。
おまけに息子と思った青年も勘違いだと気味悪くなって逃げていく。
(ジムはこの息子の設定を自分でも本物かどうかわからないと云っている)
小さく芽生えたドンの中の良心は、見事に空回りして゜オレは何してるんだろ?
゜と立ち尽くすところで終わる。
 人と人が会い、偶然恋におちたり友だちになったり、ケンカしたりするが
それは、もしかして勘違いだったり、すれ違いだったりすることが多々ある。
人間って可笑しいよね、でもいとおしいねって云っているみたいだ。
彼の映画は。
 ただ今回二回フラッシュの回想シーンを重要なところで入れている。
時間を画面に貼り付けていく手法が、探すのに疲れて諦めかけて思いと
どまるシーンで時間を逆戻ししている。そしてラストカットの五差路の
真ん中でカメラが廻ってドンのアップになるところは、映画の技法
としてうまく考えていた。人生の坂道で途方にくれる男の図として・・・・
テーマと撮影技法がラストで合体する幸せな瞬間は、M・アントニ
ーオの「さすらいの二人」以来の興奮を覚える。
 映画は、常に新しい映画に追い抜かれていく。
それがどんな駄作でも、新しい映画は、常に新しい。
これは、ぼくの持論だが、ジムの映画は、スタージェスのようでそう
でない、ブレッソンのようでそうでない、ベンダースがベンダース
以外の何者でもないように、ジム・ジャームッシュは彼自身の変化を
独自に新しい地平線に進んでいる。
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 又やる気のない中年男をビル・マレーがよく演じている。
好き嫌いは別として喜劇俳優が、新しい境地を
見つけていい作品に成長するのは、よくある。
日本だと伴淳や植木等だそうだったように。
しかし「デッド・マン」で失望した身としては、この調子で次回作もつくって貰いたい。
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by stgenya | 2006-06-02 16:35 | 映画・ドラマ
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