明日の記憶

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  明日の記憶。
 いい芝居しているとか、俳優の演技がよかったとかよく言うが
映画にとって「演技者」とはどういうものなのか。この映画は示唆
してくれる。
 渡辺謙が「明日の記憶」という原作に気に入って、主演と製作
も兼ねてマスコミに広く露出して宣伝までかってでてヒット作と
なった。確かに渡辺謙の主人公になりきった演技は迫力がある。
 俳優が演技に入り込むと、ある瞬間本物じゃないだろうかと
勘違いしてしまうときがある。ダスティン・ホフマンやM・ブランド
などの諸作品にみられる。
 この渡辺謙の場合もそれに近づいてドキュメンタリーかと思え
るほど迫真の演技である。今日本で一番脂の乗った役者だし、
病気含めて辛い体験がこの原作の若年性アルツハイマーという
題材にのめり込んだ理由だろう。
 演技を突き詰めると真実になる。映画の場合創作であるから
演技者が本物になるとそれは、ドキュメントには当然ならない。
実は、ドキュメントの人間以上の役になる。
これは、俳優というショウバイの人間にしか与えられない特権で
あり、幸運である。
 名画というものを思い浮かべてもらえばわかる。
「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーン。「東京物語」の笠智衆。
「ゴッドファーザー」のM・ブランド・・その人以外に考えられない。
 名作と名優とは、表裏一体。現実のマフィアの親分よりあの頬
の膨らんだブランドでぼくらはあの映画とその世界を共有している。
これは、役者が永遠というフィルムの時間に焼き付けられたことを
意味して時代の記憶にいつまでも残っていく。
 では「明日の記憶」の渡辺謙はどうか。
演技は確かにすばらしかったが、天秤のもうひとつの重石である
作品が釣り合いがとれなかった。決して悪くはなくいい作品だけど
名画の域ではない。それは、「トリック」の堤監督の力量というより
シナリオだったと思う。病気が進行して娘の結婚式まではなんとか
なるがやがて最愛の妻のことも忘れてしまうところで終わる。
 作品とは、こういう状況になったら人間はどうなるだろう、という
もうひとつ話を掬い直して、構成を練らないと感動を呼ばない。
名作「生きる」で余命幾ばくもない役所の課長が最後にどう生きた
かで、シナリオは話の後半主人公が死んでしまってからのみんな
のそれぞれの主人公に対する思いから、公園のブランコという結論
にぼくらは感動するのだ。
 病気がこのように進みました。本人は見っとも無く足掻きながら
妻の支えで乗り越えていきました。これでは、再現フィルムなのだ。
夫の闘病に立ち会った家族は、もっと矛盾したものだし、もしかしたら
殺めてしまいたいという衝動にかられるケースだってある。
でも亡くなって時間がたてば、それすら懐かしくなる。(私的な経験上)
だからもっと構成を練ってせっかく名演技をしているのだから
この話から人間って、夫婦ってどうだろうという視点がほしかった。
でも「寝ずの番」しかり、「恋するトマト」しかり俳優が体を使って
マスコミを掛け持ちつくった映画をヒットにつなげて行こうとする姿勢
は、日本映画にとって悪いことではない。がんばってほしい。
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by stgenya | 2006-07-07 14:25 | 映画・ドラマ
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