微笑みを抱きしめて

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 1996年にグループ風土舎によってつくられ、基本的にホール上映
の形で上映された作品で監督は、児童映画の黒澤といわれた瀬藤祝
で勝野洋と宮崎淑子の出演である。たぶんこう言ってこの映画を観た
人は、ごく少数で誰も知らないに近いかもしれない。
 気にはなっていたが、やっと最近この作品を観ることができた。
カナダのジーン・リトルの原作を鹿児島に置き換えて関功が脚本を
書いた。小学校教師の父親が末期がんになり、故郷の鹿児島の海町
で小学生のこども(兄妹)が母と夏休みに最後の日々を過ごす。
そしてそこへ両親のいない問題児の女の子篠原志穂が担任の父親
に会いに来る。
父は、あの子と友だちになってやれと病床のベッドで長男の翔太に言う。
しかし学校のみんなにいじめられると嫌がる。やがて父が亡くなり、
家も売って篠原と川内市内の同じアパートに住むことになる翔太は、
彼女の境遇を理解して大人に成長していく。唯一父から形見で貰った
手作りの木彫りのカワセミを独り占めしていたが時が経ち妹が結婚
する日やはり教師になった翔太は、「これからはさや香のお守りにしろ」
と渡すところで映画は終わる。
 テーマは子どもを抱きしめてあげよう。あなたが大切だと肌を触れよう。
いま子供の事件が日常茶飯事になってしまった中示唆的な映画である。
 夏の海辺と雲と空と子供たちが走り、釣りをする光景が秀逸である。
こどもの描写はやや現代的でないかもしれないが、映画が映画として
最後まで成立してその物語にいつの間にか引きづり込まれる力をこの
映画は持っている。父と子のやり取り。特に最後の会話になる夏の自宅
のベッドでのシーンは、だんだんカット割りが大きく襖から見た父の顔
と隣の部屋から見たベッドの一部と翔太のミディアム・ショットのカット
バックで二人のショットから引き離していく。シナリオではそれを聞いて
いた母(宮崎淑子)が耐えられず家の庭木に逃げるとあるが、完成品
では、家の前の川の夜の土手に走っていく。この土手はラストで母と
息子が和解するシーンで使われている。
 この監督は、構図の組み方が力強く又ラストカットに木彫りのカワセミ
がテーブルに置かれているショットでエンドロールを出す繊細さもあり
たえず映し出す風景に人を配置して映画を創っている。
 映画全編そうだし、過去のものすごい数の短編映画もそうであるよう
に大事なシーンをアップで人物を撮っていても背景に夕焼け雲や雑踏
の人の足を入れたり、風景の中に芝居を配置する。
これは、大変なことで現場はそのために修羅場になる。その瞬間に
みんなの息が揃わないと次の日となってしまう。まして低予算の瀬藤
さんの現場では、許されない。怒号が飛び交う。今回よくやったと思う。
 そして妻をがんで亡くしている瀬藤さんがこの映画で家族のわかれ
を描いて、その死すら日常の雑踏や夜の木立の葉音や蝉のなく夏雲
の地球の営みのあくまで一環として見つめて映像化することに成功
している。この家族の死を普通の風景として扱うことでより悲しみが
ましてしまう。山口出身の監督は、50過ぎて長編映画にやっと辿り
ついた。どうしてこういう人がもっと一般公開映画を撮れないのだろう。
この年森田の「ハル」や周防の「Shall we dance?」「絵の中のぼくの村」
などが公開された。
 僕たちは映画をどのように観ているのだろうか。映画は劇場なりで
公開して見ないとぼくらは、完成品を観ることができない。
目にしないとその映画は存在しなかったことになってしまう。
この映画が10年後も観れたのは、テレビと衛星放送のおかげである。
媒体が増えてどこかでいいものを提供できる時代が近づいている。
大宣伝で小屋にかけてすぐに終わってしまう映画もある中劇場はもっと
考えてほしい。もう流行りの終わった韓国映画をはずれているのに
GWにかけている分お蔵入りの映画がいっぱい眠りつづけているのだ。
最後に付け加えておかなければならないのは、主人公の翔太を
演じた竹内哲哉(現地オーディション)の顔がラストで明らかに違って
いる。特に目を見て頂きたい。何かを手に入れた力強い少年になって
いる。やさしさを知っている目なのだ。この目をもった子供は、親を
刺したり、放火したりしない。ぼくたちは、どうすればこの目を取り戻せる
のだろうか。



 

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by stgenya | 2006-07-17 07:24 | 映画・ドラマ
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