ミュンヘン

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 「ミュンヘン」スピルバーグ監督作品。
 1972年ミュンヘンオリンピックで実際に起きたパレスチナゲリラによる
11人のイスラエル選手殺害事件。いわゆる「黒い九月事件」を核にして
モサドによって五人のテロ首謀者を殺害する秘密組織がつくられ復讐する
ストーリーをユダヤ人であるスピルバーグが製作監督した。
 映画として長すぎる印象をもった。
映像をつくることに関しては、天性の才能をもっているスピルバーグだけに
飽きさせず最後まで引っ張っていく。ただこの作品から何を喚起されるだろう
か。殺し合いは虚しい。復讐は復讐を呼ぶ。
 こういう風に簡単に言えてその重みをこの映画から感じ、恐怖と良心回帰
の感情にあふれ身震いするほどではないのだ。
これは、「宇宙戦争」や「ターミナル」のときに感じたものに近い。
明らかにスピルバーグには、エンターテイメントの傑作の他に社会的な
テーマを扱った「カラーパープル」「アスミッド」などの意欲作があるが、
その作品群に入る。
 「シンドラーのリスト」と「プライベートライアン」のような成功作にはなら
なかった。それは、どこに原因があるのか、たぶんこの衝撃的な事件を
ユダヤ人として商売抜きにやろうと何年もかけて準備していて、その間に
9.11が起きてしまった。そして二つの戦争でアメリカが又病んでいる。
復讐は何をもたらすのか、しかし世界は、力で成り立っている。
 ここにスピルバーグは、主人公のアフナーに何を託せばいいか、迷った。
その迷いと戸惑いが最後のニューヨークのツインビルがある風景に辿り
つく。見終わったぼくらも暴力に対する姿勢をどう受け止めていいか、
戸惑ってしまう。「シンドラー・・」のように感情が落ちない。
被害者としてのユダヤ人が今暴力による復讐により、加害者になっている。
この連鎖は、新しいテロを生むだけで虚しくつらい。しかしここで力の行使
を捨てると自分が又抹殺されてしまう。
 ここには、ヒットラー対ユダヤという公式は、当てはまらない。
そしてこの映画を観ていて、つらいのは、現在の日本ですら犯罪被害者
に対する問題というのが切実である。
暴力というものにどう人間は対処していけばいいのか、
 現代は、過去のように加害者にも貧乏とか、境遇とか同情されるべき
社会的に掬い上げる理由がなく単に快楽とか、孤独とかから人を殺めて
しまうケースがある。
これは、実は大きなテーマなのである。
これを映画にするには、この問題の本質に作家は迫らなければならない。
迷って殺風景な河川でため息つくだけでは、掬い上げられない。
 エンターテイメントのスピルバーグとしては、この話を「荒野の七人」みたい
にそれぞれ車両のプロのスティーブや爆弾屋のロバートとか、文書専門の
ハンスなど人が集まりそれぞれの性格で話をすすめ、パリの情報屋や
女刺客などスパイアクション満載なのに話がドキュメントなのでこれが
弾まない。撮影も3カットぐらいをクレーンやミラーに移してワンカットで
流れるように描いていく。
ここにあるスピルバーグの映像文法は、自然でほとんどカメラを意識させ
ないまでになっている。天性の映画小僧の達人技とでも言える。
しかし迷っている心は、そのまま自然に画面にでてしまうのだ。
これから先スピルバーグはどこへ行くのか。
コッポラのようになるのか、誰も行ったことのない映画小僧の域にゆくのか・・
ずっと見守っていきたい。
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by stgenya | 2006-11-16 16:51 | 映画・ドラマ
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