街のあかり

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 アキ・カウリスマキ敗者三部作完結編と名乗った「街のあかり」
Lights in the Dusk.完全な暗闇ではないのがみそ。
 フィンランドのブレッソン、フィンランドの小津ともいわれる監督。
徹底した目線とスタイルで脚本を書き映画を撮りつづける男。
一見ギャグかと思われるくらいストレートな撮影方法をもつ作家。
 まなざしと間合いの魔術師。諦観と情熱の合わせ鏡。
これがアキ・カウリスマキ映画である。
 さて新作「街のあかり」。ヤンネ・フーティアイネン扮する孤独な
男は、警備会社で勤めている。アフター5は、誰とも交われない。
むしろ職場でものけ者。しかし彼には夢がある。
 勤めている警備会社を見返して自分で会社を起業したい。
そのために講座にも通っている。
唯一そんな愚痴を話せるのが港のソーセージ・ドッグ店の女だけ
である。もちろん本気にせず聞いているだけなんだが。
そんなときに謎の女マリア・ヤルヴェンヘルミが現れる。
寂しそうだったから声かけたと一緒に映画に行って、ディスコで
踊らず、ただいて車で帰ってくるだけだったが、人生が好転し出した。
ここで軽快な音楽がかかる。酒場の前にいつも犬を繋いでいる
荒くれ三人男に勇気を出して注意するくだりである。
人生で初めて自分から行動した瞬間だった。自分は変わるんだと。
しかし結果は殴られておしまい。犬と黒人の少年が哀れんで見ていた。
そしてその恋の成り行きが宝石強盗へつながり、人生は好転どころ
かどん底へ。しかし男は、希望を捨てない。もう一度立ち直ると
ソーセージ屋の女に愚痴る。女はいつの間にかこの孤独な男が
ほおって置けない存在になっていた・・・・
 アキ映画の文法になれない人は、つい眠くなるかもしれないが、
寝てもいい。ヤンネの孤独なまなざしと薄明かりの港町の風景を
覚えてくれれば映画アキ丼を味わったことになる。
そこから始めればいい。ブレッソンのスリという映画もストーリー
よりその主人公の手の動きだけを見ていれば、その映画の虜になる。
 この映画でおもしろいのは、カット頭に人物がフレームインして
何がしかの芝居をしてフレームアウトをする、のに決してカメラが
フォローしないことだ。人物が右へ切れてもカメラはそのまま。
しばらくその場を写す。残された人間や犬や机や街のあかりが
その意味を語りだす。
注意して見て全編これが貫かれている。
普通人物が出口へ出て行ったら、カメラはつけて出口で止まって
場面転換になる。それを拘ってやらない。
犬と酒場の男の件なんか顕著で殴られるところは見せない。
これは何を意味するか。アキ・カウリスマキの言いたいことは、
人生は選択の連続。どっちの道にも同じ比重の人生があると
いいたいようである。
 誰でも一瞬一瞬選択を迫られる。どの学校に受験するか、
どの女と結婚するか、どこのメーカーの車を買うか、どこに住むか
フィクションの場合ヒーローは、不利な選択を余儀なくされても
必ず最後はいい選択をする。
ところがこの「街のあかり」のヤンネは、ことごとく悪い選択ばかり
をする。そこで警察に駆け込めば、その女を捨てればと思うのだが
そうはいかない。そんな道へ破滅の道へ進んでいく。
もうひとつの人生があるけど、どうだろうとカメラは片方の選択を
見せる。でもこれだけ最悪でも希望だけは失わない。
それがアキのテーマだ。
主人物を追わず残されたもうひとつの側をカメラが動かず切らず
見せるということは、そんな人生はもうひとつの選択があるという
ことを暗示しているように見える。
よく考えれば現実の世界は、どっちの選択がいいのかぼくたちは
判らず判断している。エリート国際弁護士になってニューヨークで
バリバリ働いても911であっという間に消えてしまうこともあるのだ。
ドンパチ派手に見せても行き着くところは希望をもちつづけられるかだ。
そんなことをカメラ目線でじっと意味して見つめられている気がする。
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by stgenya | 2007-08-07 15:13 | 映画・ドラマ
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