遠くの空に消えた

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「遠くの空に消えた」脚本・監督行定勲
 7年前に行定自身が書いたオリジナルシナリオの映画化。
今日本映画が乱作されて新人監督ラッシュとテレビ局のコンテンツ確保
のための量産。広告代理店が入れば、原作のヒット部数さえあれば
誰でも映画ができる。有能なプロデューサーなんていらない。
 だからマンガから携帯小説までほとんど原作もの。
そんな中行定の新作が成立した。オリジナルがどれだけ重要か。
いい監督とは、どんな原作映画化をやっても監督自身のオリジナルを
もっている。それは、はじめに監督の強いオリジナルがあって、それが
作品をつくるごとに磨かれていく創作の源泉みたいなものである。
黒澤がシェークスピアをやっても、溝口が上田秋成をやっても、
キューブリックがアーサー・クラークをやっても映画自体がオリジナル
か思われるぐらい原作を超えてしまう。
それは、監督の創造のオリジナルの力が確固としたものだからだ。
 さて、この「遠くの空に消えた」である。
残念ながら脚本が弱すぎる。まず一番のミステークは、寓話とリアリティ
の問題である。一度は、みんな寓話的なものを作ってみたくなる。
ただそのとき寓話であればあるほど、各描写において説得力のある
現実感が必要になる。それが弱い。
 子供の話であるが、脚本の基本構成で定式であるが、転校生が
土地のガキ大将たちと折り合わず、最後に一生忘れられない友情が
芽生えて別れるという枠組みに工夫が見られない。
まず転校生の空港推進派幹部の息子の神木と空港反対派の牛乳屋
の息子とが好きなクラスの女の子を間に挟んで喧嘩するが肥溜めに
ふたりが落ちて仲良くなるところが説得力がない。もっとドラマ的な
仕掛けがいる。ここでふたりは、なぞの美少女の大後寿々花に会う。
ここがポイントだと思うが、大人のめざめがここでできたと思う。
ここができてないと話が進んでいっても嘘臭くてついて行けなくなる。
又反対派の砦や酒場がユートピアとして描こうとしているのだろうが
小劇団の陳腐な芝居の俳優たちの決まらない演技でこれが嘘くさい。
だから最後のこどもたちの麦畑でミステリーサークル作戦も劇的で
ない。妙なものだが岩井俊二の「スワローテイル」と同じ失敗を
しているのだ。架空のものをやるときは、構成は単純に描写はリアリティ
を持たせてフィクションは思い切り独創性に富む。これが鉄則。
伊藤歩が両方に出ていて、両方の撮影現場に行定がいる。
伊藤歩は、宮崎あおいの前に新しい日本映画の星だったのに
どうしてこの子の魅力を引き出さないのだろうか。
 そして演出として反対派のギャングたちの黒服団や酒場の人々
のエキストラに至るまで中途半端な演技をしている。
これは助監督も含めて徹底的に練り上げなければならなかった。
フェリーニの「アマルコルド」や寺山修司の「田園に死す」のように
出てくる人一人一人の顔と表情が独特で生きていなければ
ならない。それがやりたかったのではないのか、手を抜いている。
 行定勲は、監督としてのカッティングの才能があり、有能な監督
であるが、有能な脚本家ではない。オリジナルを育むには、
シナリオの力をつけた方がいい。名監督は、自分では書かなくて
もオリジナルな脚本の力を合わせ持っている。
行定には、若手の中ではそこに行ける数少ない一人なのだから
シナリオをもっと練っていくことを望みたい。
ユートピア、子供、UFO、ロシア語看板、赤旗はこれで終わった。
ここにこぼれたものをしっかりと拾って次ぎの大人の話をやって
ほしい。空港予定地の立ち入り禁止の麦畑にかかっていた
ロシア語のブニマイチェという文字は、映画で監督のよーい
スタートとかけ声をかけるときのよーいに当たる。
行定にとってやりたかったものをやったのだから、本格派の
監督への“注意”して“よーい”と準備が終わったのたから
今度は渾身のスタート(゜ナチュリー”)の声をあげてはどうだろう。
 
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by stgenya | 2007-09-05 04:58 | 映画・ドラマ
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