岡山の娘


「岡山の娘」脚本・監督福間健二。製作タフママ+幻野映画事務所。
 詩人であり、映画評論家でもある福間健二によるオリジナルシナリオ。
11月15日よりポレポレ東中野にて公開中(12/5日まで)。
 映画の可能性をいま如実に示してくれる事象としてのめずらしい日本
映画作品であると思う。
 低予算で過去に二三本のピンク映画や自主制作の経験はあっても
ここまで劇場公開へ個人の力だけでやってこれたのは、とても稀有な
例ではあるが、これがこれから誰でもが高級車を買うように映画監督
になるという時代がくる先駆けの映画になるかもしれない。
 映画は、母の死で借金をかかて大学をやめてフリーターになるみづき
とその周りに浮遊する小説家志望の女友達やヤクザの女房で未亡人
になり、子持ちで青果市場で働く幼馴染の女、あるいは映写技師見習い
のひきこもりの少年などとの交流を描いていきながら、スペイン放浪
から幼い時に別れて以来顔も知らない父が帰ってくる、この間の少女
から大人へ変化していくみづきの心の葛藤を描いている。
 映画の文法も表現も特殊なのでこの語り口になかなかなれないかも
しれないし、確かに稚拙な面(予算や諸条件のために)もあるがこのひとり
の岡山の素人の女の子を観つづけるとなんだかやさしい気持ちになる。
 これは、ある意味突っ込みどころ満載かもしれないが、この飽和状態
の現在の日本映画の中でテーマと時代性をこれほどストレートに語っ
ているのは少ないのではないか。
泣かせや笑いのエセエンターテイメントの失敗作はごろごろあるが
今の重要なテーマを語っているという点で貴重だと思う。
それは、人を殺す衝動にかられる孤児の映写技師の少年や天涯孤独
になって自己破産してアルバイトもくびになるみづきなどの心の枯渇感
をこの映画では、弱い心というキーワードで救っている。
この映画の中で詩人北川透さんが直にみづきに語りかける場面がある
が、ここで何かを表現する人は「弱い心」をもってなければならない。
という。
自分が「弱い心」だからと思って、誰でもよかったと人を殺す者、内に
こもり自傷行為する者、現実生活で自己主張せず仮面のネットで暴走
する者、対立構造のはっきりしていた30年前だと貧乏という言葉が
物語の帰結に持ってこれたが今は、人間個人の解決しない問題として
社会現象が起きるので創作がそこに追いつけない。
かつてのように神の沈黙とか、不条理とか言ってこれたが今起きている
この世界の銃乱射事件や子殺し親殺しは、そこに踏み込むと行き場が
なくなって戻れなくなってしまう。
たがらセンチメンタリーかスラップコメディーばかりの映画が量産される。
この映画では、「弱い心」は、弱い心でいいんだと言ってくれる。
まず自分の「弱い心」を大事にすること。そしてその「弱い心」を自覚し、
受け入れることから出発すること。
もともと人間って、完全でもないし点数もつける人によって違うんだ
もの。だったら人より「弱い心」を持っているなんてことに拘らなくても
いい。まずここから見つめ直そうとしている珍しい映画である。
それを自覚したみづきは最後に亡き母の歌をつい口ずさんでしまう。
みんな、それぞれの歌があるはず。それを歌えばいいのだ。
【ニコニコ動画】宮台真司vs福間健二
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by stgenya | 2008-11-18 18:09 | 映画・ドラマ
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