カテゴリ:出来事( 24 )

亡くなっためんちゃん法要

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彼がいちばん好きだった
鎌倉の森を
一緒に散歩した。
雨上がりの木々の香りが
池までつづいていた。

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by stgenya | 2017-07-03 03:54 | 出来事

大雪

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東京に大雪が降った。
二月の雪。
雪かきをやっていて腰を痛めて
せっかくの休日も安静にすることに。
いろいろと書くことがあったが
少しつづ書こうと思う。
さてさて最近の日本映画を見ていて思うこと。
最近と言ってもここ20年か15年。
デフレの時代。
すごいというものがなく、
いわゆる各種ベストテンに入るものについて?である。
特に若い監督のものがそうである。
昔と違って、ぴあFFなどでグランプリをとって
すぐに商業映画を撮れる。
そしていわゆる広告代理店とテレビ局が組んでつくる映画に
その例が多い。
沖田監督、山下敦弘、石井裕也など・・・
この人たちの才能は、かっている。
特に山下氏は、高い。
しかしかつて黒沢清は、デレカンで助監督修行した。
映画の能力は、現場から培われる。
それがないのが新人監督たちにとって不幸だと思う。
シナリオが練れてない。
演出が曖昧。
俳優が勝手に演技してる。
これらをどう自分と作品との範囲に入れてゆくか
誰かが教えてやるか、仕向けてやらなくちゃ
伸びない。
惜しいと思う。
たとえば「舟を編む」では、シナリオがもっと面白くなるはず。
「鍵泥棒のメソッド」では、女優の演技を確立できなかった。
惜しい。天才は別として才能は、育てる必要がある。
今邦画は、その制作数だけが低予算が可能で増えている。
なのに記憶に残るものが少ない。
それは、やはりシナリオができてないからが一番。
シナリオを軽視しすぎることを避けよう。
ライターがもっと評価され、それを読み評価する評論家がいない。
御用映画ライターばかりでは、映画界はますます不幸である。
どこからこうなってしまったか・・・
やはり失われた20年。デフレは、映画界にも影響しているのだろうか。
新人監督よ。シナリオをもっと自覚しよう。演出をもっと深めよ。
それを批評する眼をもとう。
才能は、伸びることを信じてほしい。
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by stgenya | 2014-02-12 04:10 | 出来事

ヤントンが死んだ。

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喪中ハガキが来て、同級生が今年の5月18日に死んだとの報。
小、中学校時代の幼馴染みの通称ヤントン。
今年の春、電話で話をして元気で今度帰郷したら
会おうと言って別れた。
 まだ五十代。心筋梗塞で命を落とした。
なんとも言えない気持ちが立ち上がって消えない。
小学生のときの濃い仲間だった。
10才のぼくたちは、毎日家出を計画し実際に実行した。
みんなで川を下って、海に行けばどこかの島で
楽しく暮らせるのではないかと夢想した。
・・・・・・・
その時代の冒険と想い出を昔シナリオにした。
「ばってんモザイク」(ATG脚本賞特別奨励賞)
内容の半分は、ヤントンのことを書いた。
フィクションだからかなり誇張して
少年たちが戦争中池に沈んだB29を飛ばすという
ドラマをつくった。
ヤントンは、風のように転校してきて
風のように親につれられ夜逃げした。
実際は、夜逃げせず野球少年になって
甲子園をめざしてかなりいいところまで行った。
父親を幼くして亡くして育ったが早く結婚をし
家族をもち、立派な家を建てた。
・・・・・・・・
あの子どもの頃一緒に雨の日も雪の日も
山に入って基地をつくった時の甘い葉っぱの屋根から
落ちるしずくの匂いを忘れない。
なぜあんなに親や学校から逃れたかったのか
山に基地をつくって、遠征して
ボタ山の向こうに楽園があると底抜けに信じていた。
そしてぼくたちだけの独立国をつくりたかったのか
・・・・・・・・
その妄想から中学生へなる手前で現実に帰ってきた。
そうぼくたちをさせたのは、初恋だった。
ヤントンとぼくは、同じ人を好きになった。
しかし心の中で最後までお互いわかっていたくせに
口にせず大人になって、三人とも別々の世界へ巣立った。
遠い遠い昔の話ー
ヤントンは、もういない。
冥福を祈る。
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by stgenya | 2013-11-18 04:24 | 出来事

新しい映画

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K監督の新作を幻野プロで制作することになって
準備をすすめている。
主役二人は、決まった。佐伯日菜子と鳥羽潤。
かなり面白い配役である。
ロケハンとして両国を歩いた。
昔からの長屋もあるが、マンションが密集して
またその間に運河が張り巡らされている。
この運河から街を撮ったら、新しい東京が見える気がする。
水の中の東京マンション。
この感じをきちんと映画にしたのは、まだないのではないか。
不思議な風景。
不思議な話には、いいと思う。
K氏が使わなければ、私の新作の舞台にしたい。
制作協力は、はじめてだが、十月クランクインに向けて
自作準備と二足のわらじをはく。
静かに淡々と進めたい。
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by stgenya | 2013-08-15 16:41 | 出来事

新年に重ねて

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平成も25年ということは、四半世紀経ったということ。
この25年で日本映画は、どう変わったか。
世界をリードしていたアメリカ映画はどうなったか。
少なくとも西暦で2000年からの12年間でも映画で
心に残った名作、傑作と新しい巨匠というものが
あるだろうか。
 かつては、スタジオが映画を作っていた。
角川映画でもにっかつというスタジオ育ちの監督・スタッフが
下請けで作っていた。
資本を出す人も資本を使う人も押し並べて映画狂だった。
脚本家は、監督とケンカしたし、監督は、プロデューサーと
ケンカした。少なくとも映画の素人が口は出さなかった。
いま、学生がぴあなどのコンクールで賞をとって監督になる。
広告代理店とテレビ局は、安く使える。
主演俳優さえ、名のある人をブッキングすれば金は集まる。
大森一樹氏なども企画の打ち合わせでそんな映画好きじゅない
奴がいて、つまらない苦労をすると何かでこぼされていた。
ここがこの25年に起った映画界の変化だ。
映画を作品ではなく、コンテンツと見なすこと。
新年から愚痴をいっても仕方ない。
新しい年に新しい可能性を見るとすれば、
それは、デジタル映画の出現で低予算で映画をつくる流れが
出来て来たこと。50万から3000万までの自主制作シネマ。
完全自由につくるフリー・シネマ派。
現在ミニシアターでかかっている映画のいく割かがそれだ。
ここから小林政広、瀬々敬久、入江悠などが世界へ出ている。
ある意味10代から60代と年齢や経験に関係なく自由に
映画をつくる流れが見えて来ている。
そこには、希望がある。
スタジオの職人たちの技や経験とこれがどう結びつくのか。
二本立て興行とこのフリーシネマ派とシステムとして配給
できるプロデューサーが現れれば何か形が見えてこないだろうか。
新年にぼんやりと夢想する。
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by stgenya | 2013-01-01 09:32 | 出来事

釜石港

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どうしても行かなくちゃいけない所があった。
明日待子さんが生まれた釜石、鈴江。
去年の津波で致命的な被害を受けた。
駅から港へ歩くと
巨大な製鉄所とドックは、健在だったが
港の町は、更地と被害でかろうじて残ったビルがポツンポツンと
建っているだけ。
それも一階や二階は、中身は何も無い。
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港の堤防も所々欠けていた。
破損した車もそのまま。
そう。そのまま。
爆撃を受けて2年近くもそのままだっただろうか。
東京は。あの1945年の戦争で。
どうして東北のこの地が捨てられているのか。
明日さんが幼くしてアワビを採ったり泳いだりした
釜石の海は、今も青々としてやさしい。
海は牙を隠している。
海は怒りを隠している。
海はあくまで静かだ。
その静けさは、町全体に覆い被さっている。
よそ者が通り過ぎるのをじっと待っているかのように。
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by stgenya | 2012-10-30 03:00 | 出来事

上諏訪での「ムーランルージュの青春」上映会

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阿木翁助生誕100年記念として阿木翁助の遺族の方たちが中心になって
出身の諏訪で映画の上映会をやった。
地元の文士・市川一雄氏やシネマトグラフすわの方たちの努力で
500名近い近隣の人たちが駆けつけてくれた。
前日から阿木さんの娘たち家族と幻野プロとで
特設の展示コーナーを会場ロビーに作った。
自筆の生原稿からムーラン台本、写真と贅沢な展示になった。
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そして主催者の宮坂水穂さん100才が挨拶した。
しっかり歩いて言葉も明瞭で阿木翁助、宮阪将嘉、新田次郎と
旧制諏訪中学で同級生だった人。
しかも昭和8年から12年までのムーラン黄金期を東大生として
見ていた人。明日待子がどれだけ可愛かったか、バラエティの
コントで宮阪将嘉が舞台を走り回っていたことなどを知っている人。
日本でこの人しかもうムーランの黄金期を語れる方がいないのでは
ないだろうか。
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映画を多くの人に観てもらい、ムーランと作家阿木翁助を語る
娘さんの笠井八重さん、三浦一重さんの上映後のお話に耳を傾ける
地元のお客さんの反応は真剣なものだった。
自分の故郷で育てたいと諏訪で家族を住まわせ、阿木さんは単身赴任で
東京で仕事をしていた。父の想い出を語る娘たちの瞳は感慨に濡れていた。
しかも忙しいのに八重さんの長男笠井信輔さんが駆けつけて挨拶してました。
のん平のじいちゃんがこんな偉い人だとも思わなかったと若い頃の話を披露。
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今回このイベントに松本から水町庸子の孫であり、三木のり平さんの
姪になる中山初美さんもお越しいただいてムーラン孫娘同窓会
のようになった。
阿木さん、水町庸子さん、宮阪将嘉さんらが天国の雲の上から
この様子をどう見ていたか、聞きたいものです。
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by stgenya | 2012-08-07 06:59 | 出来事

ある映画人の生き方

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大学生の頃NHKでその人は、インタビューで
私たちの会社は、いつでも新人を募集しています。と答えていた。
テレビの深夜放送で「鬼婆」というその人の映画を観て
感心していた。
映画をやろうと思えば、その人のところへ行けばいいと思った。
そしていよいよ卒業のとき。
本屋で「シナリオ修業」という本を買った。
シナリオが大切だとおぼろげに思っていた。
その本の中に出てくる近代映画協会という会社へその人宛てに手紙を書いた。
はじめに映画の世界は厳しい、考え直しなさいと返事が来た。
中学生の時に黒澤映画を観て興奮したこと、
「鬼婆」の映像美と人物描写が無駄がなく、心に響いたこと。
そして自分が大学四年生で自主映画を撮ったこと。
手紙に書いて再度赤坂へ送った。
それが三、四回往復があって東京に出てきなさいと許しをもらった。
ちょうど「竹山ひとり旅」の仕上げをしていたときだった。
しかし映画は年に一本あるかどうかであとは、自分でアルバイトをしなければ
ならなかった。
赤坂の事務所でここに名前を書きなさいと言われて
書いたところには、168番目の助監督としての欄だった。
自分の家が破産していたこともあって、小さな映画しか就けなくて
先生が「絞殺」を撮るというときには、別の仕事をしていて
応援でしか参加できなかった。
時は流れて
初めて幻野プロで「西風」を脚本監督して赤坂の東京現像所の試写室で
先生に観て貰った。映画のエンドマークが出るまで
先生は、貧乏ゆすりをしていて、終わるとシナリオが練ってないと
一言言われた。
それからシナリオ懸賞の常連になってシナリオ修業した。
赤坂から遠く離れて
去年自作「ムーランルージュの青春」を赤坂の事務所ビルで
試写をしたので先生に知らせたが、もう眼がよくないということだった。
100才で先生は、亡くなった。
異端でシナリオの王道を心得て、自分のスタイルは、そこから
いかに逸脱するかを心がけた映画師だった。
もっとも古い日活大将軍時代にこの道に入り、ライターと監督と
会社社主とを持続しながら畑を耕すようにコツコツと作品をつくった。
あの「絞殺」の撮影中に朝四時に起きて芥川賞と他の本を二つ読んで
七時には、その日の撮影コンテをチェックしてスタジオ入りした。
その脅威の速読と仕事ぶりは神業というしかなかった。
告別式の出棺のとき息子の次郎さんが会社が苦しいとき
額に石を投げられて血が出ても泣かないんだと父は言ったと言われた。
ひとすじ掴んだら、決して放さない滑稽なくらい強い人。
シナリオのへそは、これだと決めたら追い続ける。
映画修業は、そのまま人生修業だ。
先生の大往生に心をこめて祈りを捧げます。
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by stgenya | 2012-06-05 18:30 | 出来事

三崎千恵子さん、亡くなる

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         (夫・宮阪将嘉さんと) 
   
13日7時過ぎ鎌倉の病院にて三崎千恵子さんが死去されました。
大空千尋さん経由ですぐに連絡あり、安らかなお顔でしたとの事。
もう去年の春から一年近く病院で闘病されてやっとご自宅に帰られ
ほっとしていられるのではないでしょうか。
戦後ムーランで座長夫人を務め、金策に奔走して劇団を支えた。
にっぽんが敗戦で焼け野原になっても働きつづけた。
大正生まれのボガだった三崎さんは、芯の強い人だった。
誰にでも優しくて、泣き虫で大らかな役回りは、
単に役だけではなかった。
最後のインタビューでは、もう90になって水のように生きてる
と晴れ晴れと言っていたことを思い出す。
息が長く、人の記憶に残る名女優が又ひとり逝った。
心からご冥福をお祈りします。
          葬儀日程
      故 三崎千恵子 葬儀
  葬儀場: カルチャーBONDS藤沢(tel 0466-4127)
〒251-0052藤沢市藤沢493/生花などの注文は上記電話/
  日 程: 2月18日18時より通夜式
        19日13時30分より告別式
  喪 主: 柴 順子
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by stgenya | 2012-02-14 22:02 | 出来事

日本映画見列伝・田中真澄さん、死す。

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映画史研究家の田中真澄さんが暮れに亡くなった。
映画「ムーランルージュの青春」のパンフレット原稿を書いていただいて
去年九月の封切の日にあこがれの明日待子さんと新宿で会食したことがあった。
明日さんのデビュー映画「風車」を一緒に見て、岸松雄監督は清水宏的な撮り方
をしていると解説され、そのDVDを明日さんにうれしそうにプレゼントされた。
 そんな光景がいま甦って来る。
田中真澄さんと会話したのは、今回がはじめてだった。
ただフィルムセンターや三茶のamsなどの名画上映では何回も顔をあわせた。
顔は知っているがこの人何をしている人だろうといつも疑問だった人だった。
ムーラン映画で試写から原稿書きまでの間にそのことをお話したら、
向こうも同じ感想をもっていたようだった。
しかもそれこそ遡って35年ほど前のフィルムセンターでの記憶にもどること
になった。
あのころ黒澤明特集や小津安二郎特集をやっていて毎日通い詰めた。
まだビデオもなく銀座の並木座で雨降り名画を見るしかなかったころだ。
黒澤明特集は人が多く一時間前に並んでも入れないことがあった。
今だから時効だと思うので告白するが「蜘蛛の巣城」で入れず古いフィルム
センター
のビルの外配管をよじ登って四階の窓から侵入して立ち見で見たほどだった。
そのとき必ずいたのが長髪で汚い青年の田中さんだった。
まだ映画史研究家ではなく単なる映画見青年だった。
行くといつもいて可哀そうに無職人かと訝った。
しかしあやしい映画見手は田中さんだけではなかった。
それが昼間からフィルムセンターに通っている人の常連の奇妙な人種の多
かったこと。いつもカーボーイ姿の中年の痩せたおっさんに、
冬でもランニング姿の色黒の爺さん、乞食と間違いそうなおっさんたち。
いつも着物姿のきれいな中年女。
とにかくこのひとたちは、何をしている人だろうと不思議だった。
満員の場内で最前列に座る奴は、手製の豆ランプとバインダーで映画を
観ながら速記で全カットを書きうつしているし、終わったらそんな人たち
がロビーで眼だけで会話していたり不思議な光景だった。
それがフィルムセンターだけでなく他の名画座、大井武蔵野館、文芸坐、
アテネフランセ、ams・・・などでも同じ人種とかち合う。
時代が経っても同じ顔ぶれ。
後でわかってくるのだが、その中に川本三郎、桂千穂などがいた。
まるで古い映画を見る豪傑の群れだった。
日本映画見列伝ー。
評論家になった田中さんのような人はだんだんわかってくるが
あのカーボーイハットのおっさんやランニング姿の爺さんは、
どうなったのか・・今度田中さんと知り合いになって、去年秋その人たち
のことを聞いてみた。
そしたら田中さんが「ああ。ランニング爺さん。ニシさんね。
あの会社の重役だった」
と言われて目が点になった。
あの、30年前に焼ける前のフィルムセンターに通っていた映画見たち
は、結構エライ人たちだった。
青春を映画見で過ごして会社の仕事をゆずり、晩年また映画見を
やっていた人だった。懐かしい映画見の豪傑たち。
のちに監督になった人や俳優になった人もいる。
田中真澄さんは、大学院を出てずっと北海道に帰らず在野で映画見をつづけ
小津安二郎の本を著した。
釧路育ちで親は信州上田の出でラジオドラマと映画で育ったとこぼされた。
今度お会いするとき、あの映画見の列伝の人の話をさらに聞こうとおもった
のにもう新しい年では会えないハメになってしまった。
小津と女の話、ラジオドラマ時代の作家たちなどいろいろ面白いエピソード
をご存じだった。生き字引のような人がまた一人いなくなった。
誰かが言ったが、大家が亡くなると図書館がひとつ消えるようなものだ。
田中真澄さん。ご冥福をお祈りします。
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by stgenya | 2012-01-06 16:27 | 出来事