カテゴリ:人物インタビュー( 27 )

野末陳平氏、ムーランルージュ新宿座を語る

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昨日野末さんに九段で会う。
戦前のムーランの演目と歴史を書いた手書きの分厚い資料を預かる。
最初の昭和六年のはじまりから、時代の出来事も書き加えて
丁寧に書かれて和閉じされた二巻からなる1000ページを
超えるものとノート数冊。
とても貴重な資料で早稲田の演劇博物館ではぜひほしいといわれている
もの。
陳平さんは、学生の頃から戦後のムーランに通い詰めて
ムーランの作家たち、特に伊馬春部さんに師事して放送作家になられた。
そしてテレビの草創期のバラエティからドラマまで手がける。
ムーランについてかなりの資料を集めて実際にムーランの俳優たちと
仕事をしながら独自でムーランの研究をしていたという。
巷でいわれている早稲田の卒論で「ムーラン」を書いたというのは
先のことが高じたデマだった。(卒論はインド哲学について)
バラエティーという言葉もムーランから始まったものだった。
陳平さんは、政界も引退して今隠居の身になってもムーランのことを
しゃべるときは、青春がよみがえってくるように目が輝く。
又話を聞きたいと思った。
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by stgenya | 2010-09-30 10:31 | 人物インタビュー

香椎くに子さん2年前に亡くなる


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香椎くに子さんの家に行く。
息子さんが親切に応対してくれた。
香椎さんは2年前に亡くなっていた。
ご主人のプロデューサーでやはりムーランの作家だった
植野晃弘さんも5年前に亡くなっていて
ムーラン時代は、香椎くに子さんは清純派で看板女優に
のぼりつめる。
のちにテレビ初期の「名犬ラッシー」や「宇宙家族ロビンソン」
などの母親の声とかアニメの「ラスカル」の母役の声優として
活躍する。
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またご主人の植野晃弘さんは、テレ朝のはじまりから参加し
淀川さんの「日曜洋画劇場」や「土曜ワイド劇場」のテレフューチャー
を立ち上げる。
これらは、今でも生きている。どれだけ先見の明があったか。
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(ラジオ「青空娘」左から2番目植野氏)












父は千葉工大の理系で母は、芸能人に珍しくまじめ一方だったという。
しかし息子さんは、両親のことを語ると嬉しそうに懐かしむ。
いい両親が仲良く、愛情たっぷりに育てるとその息子さんは
こんなにいい子供に育つのかと理想的な見本のような人だった。
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by stgenya | 2010-09-28 04:00 | 人物インタビュー

美術監督・中村公彦氏を見舞う。

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美術監督中村公彦さんのお見舞いに月曜日に行く。
もうほとんど会話はできない危険な状態になっている。
94才。日本映画美術界の重鎮の一人だった。
 かつての新宿ムーランルージュの舞台美術から出発して映画美術へ
進まれた方だった。また名監督の名作を担当した珍しい美術監督でもあった。
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 最初に松竹で助手でついた小津安二郎の「麦秋」
 一年で美監となり木下恵介の「女の園」「二十四の瞳」
 そして日活に移って川島雄三の「洲崎パラダイス」「幕末太陽伝」など
 今村昌平の「豚と軍艦」「にっぽん昆虫記」など
 井上梅次の「嵐を呼ぶ男」他。
中村公彦さんは、美術学校を出た人ではなく戦前早稲田大を出て三菱重工で
サラリーマンをしていて戦後偶然の出会いから絵心があるというだけでムー
ランの舞台美術へ入った。
 ちょうど今私は、その軽演劇の芝居小屋「ムーランルージュ新宿座」の
ドキュメントを作ろうとして中村先生の取材をはじめたばかりの時に病床へ
伏せられた。もっと早くお話を伺えばよかったと反省している。
しかも先生の映画界へ入られて関わった作品作家がみんな私の好きなもの
ばかりでそちらも聞きたかった。
 いま家族とかつての美術部の助手である土屋伊豆夫氏、三輪敏雄氏らの
お弟子さんたちに見守られて救世軍ブース病院にいられる。
人の最期は、孤独なものだが師と弟子の姿をみているとすばらしいものだ
と思う。先生は病床でその弟子に「ムーラン」と一言声を発した。
「ムーランの資料は弟子にまかした」という意味だった。
先生にとって「新宿ムーランルージュ」は青春だったのでしょう。
なんとか持ち直して貰いたいものですが・・・
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by stgenya | 2010-06-30 04:47 | 人物インタビュー

アンドレイ・ボルトネフ

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「わが友イワン・ラプシン」(監督A・ゲルマン)などで日本でも
知られたロシアの俳優アンドレイ・ボルトネフが最も愛する日本
女性について愛を語っています。
 心から情熱をこめて語っています。
彼は、1946年にロシア中央部のウファで生まれて舞台や映画で活躍
して特にレンフィルムでいい作品に出演しています。
しかし1995年12月に若くしてモスクワで病死しました。
 かなりの酒飲みだったのが祟ったかもしれません。普通のウォッカ
では我慢できず80度のサマゴンという密造酒が好きでした。
長生きしてハリウッドに渡っていればシブい俳優として刑事ものでも
活躍の場があったかもしれない。
ロバート・デュバルやトミー・リー・ジョーンズのような・・・
そう思うと残念です。
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by stgenya | 2010-06-11 05:18 | 人物インタビュー

今村昌平「豚と軍艦」


3月28日もと日活のスタッフが集まって今村昌平の
「豚と軍艦」の撮影裏話をする。
もと日活所長で当時美術助手だった土屋伊豆夫さん
と当時録音部だった長橋正直さん、美術の三輪敏雄、
スチールマンの目黒祐司さんらが今村昌平の撮影に
対する徹底したリアリズムと狂気の演出法などを
話してもらった。
 確かににあの豚が街中を走るラストは、映画史に
残る。この「豚と軍艦」でイマヘイが映画作家とし
て世間に周知された初めではないかと思う。
昭和29年に再開した日活には、鈴木清順が松竹から
イマヘイを連れてやってきた。
だからイマヘイは、初めは、大船にいてカチンコの
下位の助監督で「東京物語」についている。
本人が語った所によると、ダビングの際に自分の母
親が亡くなって葬式をして編集スタジオに入った時
劇中で東山のお母さんが脳梗塞で死ぬ場面があって
イマヘイの母親と同じ死に方でラッシュが見ていら
れなくてトイレに逃げて泣いていると小津安二郎が
追いかけて来て、「あれでいいか。おまえの母と同
じか」と聞いてイマヘイがうなずくとニンマリ笑っ
たというエビソードがあるが、この時からイマヘイ
の冷徹なリアリズムの芽が始まったように思う。
奇しくもイタリアでネオリアリスモがその前に世界
に浸透していたことも若き映画作家は心動かされ
たのではないだろうか。
だからイマヘイは、この後だんだんドキュメントスタイル
へ変遷して日活を去ることになる。
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by stgenya | 2009-03-29 23:06 | 人物インタビュー

わたしは真悟


楳図かずおの「わたしは真悟」の映画化を考えて、
「ロボット」という括りで楳図さんと仕事しながら
どうしてもこの楳図さんの後期の作品が普遍的な愛の
テーマを扱っていて、映画にしたいと思って要約版を
制作した。
 今でもこの企画は、正しいと思っている。
実は、K氏に台本も書いてもらったことがあるが、
諸事情で成立せず、そのままになっている。
少年と少女の初恋の話から人間と機械という世界の
果てまでつながっていくスケールの大きなものが
この作品にはあり、ロボット技術もさることながら
親が子供を殺し、子供が親を殺すという危ういこの
21世紀の時代を映すのに必要なテーマをもった作品
だと思う。どこかで又この企画の復活をねがっている。
 また楳図さんは、変わった人のように見えて
実際話していくと極めて哲学的で常識人であった。
時代や世界を見る目に予見的なところがあって
その勘の鋭さは、非常に反射的で生まれついて
もったもので凡庸ではなかった。
映画の企画は、生き物で難しいが10年かかえても
消えないものは、何かがあるはずである。
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by stgenya | 2008-03-31 23:34 | 人物インタビュー

マキシム・ムンズクさん、黒澤明へメッセージ


リンク:http://jp.youtube.com/watch?v=t5laruWvL3c

映画「デルス・ウザーラ」のデルス役をやられた
マキシム・ムンズク氏にシベリアのクングールという町て゜
1989年3月にお話を伺い、3月23日の黒澤さんの79才の
誕生日のお祝いをメッセージとして個人的に撮影した
ものの一部です。
 彼は、あのデルスそのままにとても素朴な人でした。
当時77才だったが、極寒の地でも逞しくしっかりとして
いて、誰に対しても優しい人でした。

黒澤さん、一緒に東京で仕事をしたあなたと日本の映画人の
皆さんにご挨拶を送ります。皆さんに心から感謝しています。
黒澤さんや黒澤さんの弟子たちと一緒に仕事ができて有り難いく
思っています。創造的な仕事のご成功ともちろんご健康とを
お祈りしています。
 もうじきお誕生日ですね。おめでとうございます。
本当に感謝しています。私たちロシアの映画人からくれぐれも
よろしく伝えてください。
 黒澤さん、1974~1975年の2年間一緒に仕事をしましたね。
私は、実にうれしかったですよ。ありがとう。
自分はまだまだ仕事をするつもりです。
もっと働かなければなりません。
黒澤さんにまたお会いしたいです。
あなたは、とても大きな人でした。
ありがとうございました。
ー他の日本人スタッフへどうぞメッセージをー
また野上さん、中井さん、簑島さん。
ほかにもたくさん友人がいました。
三船さんも知り合いです。皆さん、お元気ですか。
1975年9月30日から10月10日まで初公開のときに日本へ
行きました。東京、大阪、京都と。とても気に入りました。
もう一度行きたいものです。そして黒澤さんをはじめ友人たち
にお会いしたいです。
どうかよろしくお伝えください。
心からありがとうございました。

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マキシム・ムンズク氏は、1912年7月15日にロシアのトゥーバ
というところで生まれ、俳優、歌手、舞台監督と活躍しました。
奥さんもトゥーバ音楽舞台劇場で歌手をしていると語っていました。
このインタビューの中でも黒澤さんと2才下だと言っていました。
そして1999年7月28日クイズイルにて死去。87才でした。
その前年9月に黒澤さんが88才で亡くっています。
西村雄一郎氏の「黒澤明ー失われた10年」という本で「トラ・
トラ・トラ」で傷ついて、この「デルス・ウザーラ」で復活
する様子が描かれていますが、このシベリアでムンズクさんと
映画を撮らなかったら、その後の「乱」や「夢」はどうだったか・・・・
ちょうどこのインタビューの年、黒澤さんは、「夢」の準備を
していました。もしデルスに隊長が最新の銃を渡さなかったら
殺されずにあの「夢」の笠智衆のような100才を超える老人に
なっていたかどうか。
映画の中でデルスが隊長に太陽を指して言う。
「あれ、一番偉い人、あの人死ぬと、みんな死ぬ。」
そして月指して二番目に偉い人という件があるが、あの自然児の
言った言葉を肝に銘じていれば、どんなことだって怖くないハズだ。
難しい言葉も架空の金融も偽装の生活も宗教もいらない。
環境の破壊も核やテロの脅威も太陽がなくなればその価値はない。
ムンズクさんの純粋で自然と人間の真実を知っているあの潔い覚悟
の演技が今でも胸をうつ。
「デルス・ウザーラ」の撮影は極めて大変だった。監督は最後の作品
の撮影までこのときの帽子をかぶり続けたというぐらい困難な
仕事だった。でもここを死んでも乗り越えなければあの「トラ・
トラ・トラ」の二の舞になる。そう感じたんだと思います。
あんな天才でもどん底や地獄に足がはまることがあるのです。
どんな人でも絶望はある。しかしどう復活するか、
この黒澤さんの失われた10年は、そのヒントになります。
生きている限り、仕事(創作)をするという姿をこのふたりに
教えられたような気がします。
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by stgenya | 2008-02-28 04:18 | 人物インタビュー