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黒澤明考1 幻の24作「虎・虎・虎」

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 田早川弘著「黒澤vsハリウッド『トラ・トラ・トラ』その謎のすべて」
をこの夏休みに読んだ。
今年の前半に出版された労作である。
88歳でなくなるまで生涯30本の映画をつくった巨人黒澤明。
いま北斎や広重が生きていたら、どれだけの扱いをしただろう。
シェークスピアが、ベートーベンが、ゴッホが・・と思ってみると
その偉大な作家たちの人生の仔細はわからないことが多い。
そして必ずしも現在評価されているような篤い世の扱いを受けて
いないことの方が多いように思う。
 私はこの黒澤さんの仕事の中で唯一撮影をしながら中止に追
い込まれた「トラ・トラ・トラ」のことがずっと気になっていた。
あれだけの人でも敵わないことがあるんだと不思議だった。
しかも子供の頃、私の住んでいた近くの芦屋海岸に巨大な戦艦
のオープンセットが組まれ見物の対象になっていたこともあって
かなり期待していたにも拘らず、監督交代劇になった。
そしてその後「どですかでん」公開後に手首を切って自殺未遂。
 いったい黒澤さんに何があったのだろう。
この誰も語らない黒澤映画史の一大ブラックホールをまるで
タブーのように闇に閉ざされてきたことにやっと光が当てられた。
キネ旬の白井佳夫の特集などはあったが、黒沢さんが生きてい
たこともあって余り深く正確な資料では語られていなかった。
 それがこの本では、アメリカ側で契約書と台本、診断書などの
行方不明だった資料が出てきて、さらにこの著者が当時黒澤
プロに雇われた通訳だったこともあって当事者の20世紀フォッ
クスの責任プロデューサー・エルモ・ウィリアムスにインタビュー
している点が新しく、結論として本当に黒澤は精神病で降板し
たのか疑わしいし黒澤とダリル・ザナックとの作品決定権の
主権がどちらにあるかの意識の違いがこの事件の大きな原因
だったという内容だった。
「トラ・トラ・トラ」と黒澤さんが書いた「虎・虎・虎」は内容が違う
らしい、プロデューサーが最後の編集権をもっているハリウッド
方式と監督が作家である日本のやり方の違いが明らかにあった。
これがはっきりしないまま悲劇に向かったのがこの事件だと結論
づけている。
 私は、たまたま当時書生のように準備からかかわっていて
チーフ助監督だった大沢豊さんにこの事件のことをこぶしプロ
の事務所で聞く機会があった。
配役が本物の元海軍軍人で現在会社の社長や役員やって
いる素人たちばかりで、東映京都撮影所での撮影がトラブル
の末23日で黒澤さんの分が永遠に終わったという。
有名な果たし状事件で大沢さんは、セカンドの後藤俊夫など
の助監督を全員並べて黒澤さんが殴れと怒鳴るのを泣きな
がら「できません」と言って、黒澤組の撮影から外れることに
なった。
そのとき黒澤さんは、ひとりで泣き出したらしい。
そして本には書いてないけど、大沢さんのいうには、最後は、
暴れる黒澤さんにある薬を打って、奥さんとともに東京へ送
ったそうだ。
 このとき三人の医師に診てもらって診断書を書いたものの
一つにあった「精神衰弱」という記述がエルモ・ウィリアムス
の決定的な黒澤降板の保険会社との材料にされた。
 今見るとシナリオが最後まで黒澤の意見が通らず、編集権
は20世紀フォックスにあったことを契約書に書いてあるのを
知らなかった黒澤のストレスは、精神衰弱にもなっただろう。
 精神病ではないのだ。しかも解任後黒澤プロの交渉担当者
だった青柳氏は、菊島隆三と組んでフォックスから貰った金
のかなりを横領していて、肝心の契約書をもったまま逃げて
しまった。
 つまり世界へ初めて日本の監督が自分の製作会社で仕事
を受けて、その契約と仕事の進め方がわからないまま撮影に
突入した悲劇だった。
晩年「八月のラプソディー」の講演会の質疑応答で
「なぜ今までみたいに複数で脚本を書かないのか」という
質問に一瞬空を睨んで沈黙した後、
「書ける人がいなくなったんだよ。ある人は、・・・金銭に卑しく
なってね・・・・」と黒澤さんが言うのを直近に見たことがある。
いま、そうだったのかと思う次第だ。
そして黒澤さんがアカデミー賞の名誉賞をアメリカで受けた
とき、高齢になって会場にいたエルモ・ウィリアムスが近寄る
と顔をそらして退場したそうだ。
もし黒澤版「虎・虎・虎」があったら、どれだけ迫真の悲劇
の戦争映画になっていただろうか。
しかしそれにしても誰の人生も一筋縄にはいかないものである。
高千穂交易KKの社長だった鍵谷さんを主役にしたことで
セットの入り口から赤絨毯を敷いて出番の際にラッパを吹かし
たことやクランクイン早々照明が落ちてきて以後黒澤がヘルメット
をかぶり、ガードマンを付けさせたこと、又セットの白壁が気に入
らず、黒澤自らいきなり黒で塗りだしたこと(これは根来塗りで後
から白を塗って厚みを出す)など奇行のように見えたことも実は
新しい作品への試みの熱心さ故だったのではないだろうか。
そして撮影が23日で未撮影が12日になり、進行が遅れたのも
「七人の侍」でわざと一年遅らせたことを考えれば、東宝のように
20世紀フォックスもなんとかしてくれると思ったのではないか。
しかし青柳氏以外たぶん誰も知らなかった英語の契約書には
12日以上撮影が延びると契約違反になると書いてあったのだ。
その12目が解任決定の12月24日だった。
黒澤明は、まさしく山本五十六のように初めから負ける戦争に
突入して何かおかしいと感じたときには、もう遅かった。
「暴走機関車」と併せて5年間をハリウッドと無駄に過ごしたこと
の落胆はすごいものがあったろう。
身内に裏切られ、東映京都のスタッフはストをするし、挙げ句の
果てに無惨に途中解任される。映画監督としてこれ以上ない試練
を味わったにもかかわらず、「デルス・ウザーラ」から復活する。
その生命力の強さは並ではない。
ある人は、あの戦車も来た「東宝争議」を経験した人だからという
が、純粋に映画をつくりたいという無垢の人だったから、あそこで
死ぬわけにはいかなかったのではないか。
1969年の「虎・虎・虎」以前と以後では、単に三船敏郎が出てる
出ていない以外に黒澤作品が違っている。
黒澤さんの書いた「虎・虎・虎」はどんな実録戦争絵巻になったか
誰も知る由もない。
 結果的に「トラ・トラ・トラ」のB班の代役監督に佐藤純弥と深作欣二
を紹介したのは、キラれた助監督の大沢豊さんだった。
その大沢さんに最後に聞いた。
「黒澤さんが数日間撮った映像(OKカットで10分程)がある
筈ですよね。どこにあるんですかね」
大沢さん「フォックスのどこかの倉庫にあるかもしれんげどね」
幻の黒澤映画は、まだまだハリウッドの藪の中に眠ってる
かもしれない。

 
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by stgenya | 2006-08-24 12:07 | 映画・ドラマ

花よりもなお

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 是枝裕和脚本監督の松竹配給作品。
製作は、テレビマンユニオン、エンジンフィルム他。
 公開前から監督自らPART2をやりたいと吹聴して
いた。立川談志が面白いともらしていたにもかかわらず
三週目以降それほど伸びなかった。
 「幻の光」('95)から「誰も知らない」までのドキュメント
風の作品群から松竹時代劇とはミスマッチのように見え
たが見てみるとある意味「なるほど」と思える。
戦前からある時代劇に仕立てた長屋人情喜劇である。
 ジンタのような景気のいい音楽に始まってボロ長屋の
人々をセンスのいいカメラで活写していく。
是枝の映像眼は、こどもの描写や衣装の汚れの拘りや
長屋の営みなどのリアルな描写に表れている。
なるほどである。今までの映画とつながっている。
 岡田をはじめ古田、加瀬と俳優たちも恍けてまあまあ
である。話も仇討ちをテーマに親の仇を探す信州の若侍
とその幕府の報奨金目当ての長屋のその日暮らしの町人
、そして本物の赤穂浪士の潜伏した仮の姿の住人。
発想が面白いし、9.11を思い巡らして今日的である。
 剣に長けていない若侍(岡田准一)が未亡人の宮沢りえ
にこころを寄せていく中で仇の人足(浅野忠信)の現在の
妻と子供のいてまじめに働いている姿を見ていくうえで
仇討ちを諦め、代わりに長屋総出でうその仇討ちをして
金をもらい店賃も払えない貧乏長屋の住人たちを助ける。
仇討ちによる恨みでは、何も解決しない。どう人を許し
受けとめるか、と監督はいいたいようである。
人物描写も乗ってていいし、これが成功していたら一級品
の喜劇になっていただろう。
 心地よいのに中だるみがして見終わったあとに残らない。
これは、ひとつに岡田と宮沢りえのシークエンスが明確で
ないことと、岡田と浅野の仇同士の葛藤が甘いからでしか
ない。一番重要な話の柱できちんと描いていないからだ。
あんなボロ長屋に鶴のように宮沢母子がどうしているのだ
ろうか、又探しあぐねていた仇をどうして見つけていたのか
端折っているところから関係がうすい。
雰囲気と気分でたのしく長屋人間模様を描くだけでは、
映画にならない。「どん底」や「人情紙風船」とまでは言わ
ないが、江戸時代現実の長屋の暮らしはこうだったのか
と思うぐらいリアルに描いているのに、人の心の揺れを
リアルに描いていないと単なるおとぎ話になる。
ちょっとこころを潤すおとぎ話を目指したとしたら、エンター
テイメントを甘くみているということになる。
是非脚本をもっと練ってからこの企画をしたらよかったのに
と是枝作品を初期のテレビドキュメントからだいたい観てる
者として残念に思う。
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by stgenya | 2006-08-11 11:53 | 映画・ドラマ

クラッシュ

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 ポール・ハギス監督脚本のアメリカ映画。
「ブロークバック・マウンテン」と競ってアカデミー賞作品賞を
獲得。
 「運命じゃない人」で新しい映画脚本構成が進化して「パズル
構成」をタランティーノからの亜流であると言ったが、この作品
も構成が凝っていて、「トラフィック」のような「パラレル構成」を
編んでいて、時制をすべて一日戻して、冒頭の自動車事故と
路肩の藪で発見される黒人青年の死体発見とラストのその正
体が刑事の弟だと戻ってわかるところで終わる構造になってい
る。
 しかしここで平行して描かれるそれぞれの人間模様と人種
模様は、まったくストーリー的な関係性はなく、場面展開の度
に初めて護身銃買うペルシャ人父娘だったり、高級車を盗ま
れる白人の地方検事夫婦だったり、同種の車に乗っていた黒人
のテレビディレクター夫婦が人種偏見をもつマット・ディロンの
巡査に職務質問され妻が辱められる。又盗難にあった地方検
事の家では、鍵を付け替えるが、刺青を入れたヒスパニックの
鍵屋を信用せず、新たに鍵つけかえる・・・・黒人青年による車
泥棒から、全く関連のない人種たちがそれぞれに連鎖的に関
わっていくミステリアスな導入から展開部まで飽きさせない。
 ロサンゼルスという人種の坩堝の街でお互いに人種偏見と
富裕層と低層家庭、アメリカ人と新移民者、それから最後は
タイ、ベトナムからの不法移民の子供までヒリヒリと火花を散ら
す中で民族雑居の社会のひとつのパラドックスをこの監督は
描いてみせる。
 かっての社会派映画と趣が違うのは、そこだと思う。
「さまざまな人がロサンゼルスでコンクリとガラスの壁に遮られ
て生活し、お互い交わらない。ただ偶にクラッシュして火花が
散るだけだ」
 こんな理不尽な社会で貧しき善人が抑圧している差別主義者
を最後は糾弾するか、改心させるかのかつてのような単純な
プロットではこの現在の生きにくさを掬いとれない。
そこでポール・ハギスは、それぞれにパラドックスを考えた。
人種差別者の巡査は、病気の父の介護を甲斐甲斐しくしている。
そして後半自分が辱めた黒人の美人妻を交通事故から命を
救う。又そのマット・ディロンの巡査に嫌気がさして、別の班を
希望した若い巡査は車ドロの黒人青年を警察の尋問から救うが、
もう一人の車ドロの黒人青年をヒッチハイクで乗せて勘違いで
車の中で発砲して殺してしまう。
 また鍵屋に鍵を修理してもらったにも関わらず泥棒に入られ
たペルシャ人の雑貨やが保険も降りないことから頭にきて鍵屋
に思わず発砲するが助けに入った鍵屋の小さな女の子の背中
は傷ひとつなく、奇跡的に助かる。
(このカラクリは見てのお楽しみ)
 このようにこの辛い内容の映画が見終わった後なんとなく清清
しい気持ちになるのは、この逆説が利いている。
都市生活者は、何かを常に犠牲にして暮らしている。人種や貧富
では、人の善悪の顔はわからず、クラッシュして初めて血の流れ
た人の顔になる。
 この映画は、監督の個人的な車盗難事件から家の鍵を取り替え
た体験から発想されているという。
 全体に深みのある短編小説の印象を与えるのには、やはり初め
の黒人刑事と車ドロに成り下がった弟との関係など柱になるところ
が他より、人物設定がうすいからだと思う。これは残念だった。
 やはり長編映画は、テーマと主人物が一本の大きな力でつなが
っていないと感動は呼ばない。感動的な鍵屋と娘の話と黒人刑事
の話がつながっていないところが短編集に留まった要因だろう。
 シナリオは、構成で話をつくる。これをいじるとき、視点が問題に
なる。今回「神の視点」と題されたが、これは、そう容易なことでは
ない。
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by stgenya | 2006-08-07 15:47 | 映画・ドラマ