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太陽

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 ソクーロフ監督の昭和天皇を描いたロシア映画。
製作にイタリアの会社が加わって資金提供している。
タルコフスキーの「ノスタルジア」などと同じアート映画の製作方式。
 まず茂木健一郎のクオリアに勇気づけられて「印象批評」から。
この映画は、極めて神経の細かい美術家の純粋な創作力によって、
丁寧につくられた精度の高いレプリカである。
 映画を観るとき、その意味や内容よりも最初に感じた印象が
どれほど大事か、その印象が後年見直して違ったものになっても
初めて心の中に起こった映画に対する感情は、その映画の方向を
指し示している。
 「太陽」は、昭和天皇の一人称映画であり、昭和20年空襲の
激しい東京の避難壕の中で戦争の終わる過程を丹念に描き、
敗戦後マッカーサーの人間宣言を受け入れるまでをカメラが
追っている。
 日本人であるこちらとしては、イッセー尾形のひとり芝居から
観続けている関係もあって、「あ、そう」も金魚のような口パクの
癖もどうしても形態模写に見えてしまう。
しかもあの「チョコレート。おしまい!」のセリフに至っては尾形自身
の地がでてしまっている。ラストの桃井かおりの皇后など撮影の
合間の休憩のふたりのノリそのままにやってしまっている感があり
つい「なんだ。これ、年末のかくし芸大会か」と思ってしまう。
尾形は、器用な俳優である。
外国人が見たら「うん。そうか。そんな人だったんだ」と感心して
しまうかもしれないが、尾形天皇は極めてうまくカタチを真似ている。
ちょうど「吉田学校」の伊丹十三の田中角栄や「三文役者」の
竹中直人の殿山泰司のようだが、尾形天皇は前2人ほど内面に
迫ってない。
だから観終わって昭和天皇とは、どういう気持ちで終戦を向かえ
どんな気持ちで空襲の中植物と接していたのかわからない。
普通のこういう戦争歴史ものだと必要以上に「わたしはこう思った」
と役者がはりきって演じるのだが、イッセー尾形とソクーロフは
それをやってない。むしろわざとやらなかったのなかと思ってしまう。
昭和天皇の内面を演じず、カタチだけに徹したことがかえって
この「太陽」という映画の成り立ちと興行的な成功をもたらした
のではないだろうか。
 なんたって銀座の外れの元成人映画の地下映画館におじさん、
おばさん、一般新聞をしっかりと読んでいるような30代の女たち
や真面目そうな青年たちで溢れかえっているのだから。
できるだけ人物の内面を空虚にして見せることで、現在議論の的
となっている天皇というものに、右だとか左だとか傾かない映像
パッケージになっているのは、ある意味確信犯かもしれない。

それにしても今戦争を知らないわたしからみると、
よく「一億玉砕」なんて掲げたものた゜。
つまり日本人が米英に対して戦を挑んで負けたら全員死んでも
構わない。この地球上からいなくなってもいいと思い詰めた
ということである。19世紀からの植民地主義から太平洋戦争に
至る事情があるという論もあるが、それはそれで究明すればいい
が、昭和二十年8月日本は、全面降伏してアメリカに史上初めて
占領された。天皇は人間宣言した。
男はちんぽを切り落とされ、女はみんな強姦され日本人は奴隷
になると噂されたが、アメリカ文化という首輪をはめられただけ
だった。
 この映画の後電車で帰りながらうつらうつら思った。
イデオロギーよりも前にもしかして感情としてアプレゲールも60
年安保も連合赤軍も、戦争で負けたアメリカに対する怨みと負け
犬のように戦前は旗を振ってたくせに尻尾を振っている世代と
体制に対する嫌悪があったのではないだろうか。
ちょっとたとえが悪いが、何代もつづいた銀座の老舗を欲をかいて
膨大な謝金をつくり、立派な土地屋敷もろともみんなが外国人に
取られて小さなアパートで借家住まいしてしまったような感じに
似てはいないだろうか。
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by stgenya | 2006-09-26 11:23 | 映画・ドラマ

メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬

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 トミー・リー・ジョーンズの監督主演作品。
なぜか今年は、ソソられて見に行く映画が俳優が監督する
ものが多い。これは、ハリウッド版。
企画から自分で絡んでいく方が望みの内容の映画で演技
できるからだろうか。このおじさん、窓外をじっと見詰めてい
るだけで渋くて絵になる。
 ストーリーは、「21グラム」のギジェル・アリアガの脚本で
三部構成でそれぞれの埋葬事情が語られる。
国境警備隊がコヨーテが埋葬された死体を漁るのを発見
するとこから始まる。次に新任の警備隊員バリー・ペッパーが
間違えて不法移民のカウボーイ/メルキアデス・エストラーダ
撃ち殺してしまい、慌てて埋める発端へ時制を戻す。
この間に砂漠の退屈な町に来たバリーの新婚夫婦の生活が
紹介され、トミーとメキシコから潜り込んだエストラーダとが
馬を介して親しくなり、一緒に働くようになる件を回想で刻む。
そして最後の埋葬であるエストラーダの腐りかかった死体を
死ぬ前にトミーに漏らした「オレが死んだら、故郷のヒメネス
に埋めてくれ」と言った言葉どおりに犯人のバリーをつれて
メキシコへと旅立つシークェンスになる。
 男の友情の世界とメキシコ国境不法移民のやるせない生活
と渇望。鋼のように硬い罪と罰の報復。
テーマもよく、トミーもバリーもこの上なくよい。
しかしなぜか物足りない。
なぜだろうか。この本の欠陥は、やはり肝心のメルキアデス・
エストラーダの描写が細切れの短い回想だけに留まったこと
にあるのではないか。
 あれだけ犯人のバリーをこき使って腐ってもヒメネスに埋めに
いく主人公の想いの強さを単に「気のいい馬好きの不遇なメキ
シコ移民」との友情と既成事実として語られても心は落ちない。
それが結果として彼の言っていた写真の家族も美しい町ヒメネス
も幻だったと逆転させても・・・
 メルキアデスの姿がうすいのだ。
もし正攻法過ぎてつまらないという理由でメルキアデスとの友情
を中心に描かないのなら、現実の時間軸である執行者と罪人の
償いの旅にスポットを当てる必要がある。
この場合よく南米文学などにあるロードムービー風にするなら、
死体を運ぶトミーとバリーののっぴきならない二人だけの旅で
パニッシャーと罪人との人間関係が微妙にずれて交差していく
ことで起こる何かを蛇の眼のように見つめだすという手法もある
だろう。そこにメルキアデスのヒメネス(心の故郷)が、トミーの
ヒメネスになり、バリーのヒメネスになる。
いったいヒメネスとは何だったのか。
バリー・ペッパーがいい俳優である。ペニスの塊のような立派な
体をもち、女に裏切られる男の心に住んでいる拠り所がもっと
明らかになっていたら、もっと感動できたのにと悔やまれる。
生まれた町は美しく、そこに行けばやさしい妻と子供が待っている。
デッキチェアに吹く風は心地よく、テキーラの酔いともにシエスタ
を誘う。
 しかしその土地は、荒れ果ててぺんぺん草が生えている。
つらいが男たちは、前へ生きなければならない。
トミー・リー・ジョーンズおじさん、映画の狙いは何度でもやれる。
3度といわず・・・・、
そしてあなたの「ヒメネス」を語ってください。
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by stgenya | 2006-09-14 11:36 | 映画・ドラマ