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サイドカーに犬

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根岸吉太郎監督「サイドカーに犬」。
 脚本は、田中晶子と真辺克彦。原作は、芥川賞作家長島有の
「サイドカーに犬」と「猛スピードで母は」。
 主演は、竹内結子、古田新太、松本花奈、ミムラ。
「雪に願うこと」が久々によかった(今年の日本アカデミー賞は
「フラガール」より「雪にー」を選ばなかった業界の認識の低さを思う)
ので喜んで見に行った。
 竹内結子が「春の雪」につづいての離婚後復帰作である。
女優の花があるのに、男にひっかかってしまって勿体ないなと
思っていたが、子持ちで再開。相変わらず色気がある。
 まずこの映画が純文学の映画化ということからも簡単にすっきり
しない鑑賞感がある。
そして根岸のせっかく「雪に願うこと」でいい味だしていたのにどうも
複数の要因でうまくいってない。
 話は、仕事にも私生活にも空虚感が見えてきた30女が、弟の結婚式
に出席するという話から、小学校のときに母が家出して、家に知らない
若い女ヨーコ(竹内結子)がころがりこんできた過去の夏の日々を
回想して、その自転車好きの不思議な女の魅力とともに子供の心
のまま生きることの大切さと難しさを懐かしく切実に感じてしまう
いまの女の子の穴うめ作業を描き出す。
 子役の松本花奈の自然な表情がいい。子供をこんなうまく撮れる
監督だったとは新鮮だった。
又二度目の出演の山本浩司がいいバイプレーヤーぶりを裏切らず
貴重だ。今バイプレーヤーがいない。評判なるとCMとってすぐ主役
をやりたがる者が多すぎる。
 この映画で上手くいかなかった要因の一番は、主演の古田新太だ
と残念ながら言わざるを得ない。バイプレーヤーではそこそこの
存在感を出す彼だが、今回人生に争うことを嫌い、欲がないけど憎めない
男を演じている。ヨーコが惚れてしまう男だ。二枚目でない設定の方が
いいのだろうが、家にいて、車のディーラーの仕事をして、幼い長男と
キャッチボールをして、飲んで食ってヨーコがそばにいたいと思う男
、逃げた女房も又どうしてるか心配になって戻ってくる男。
これは、夫婦の機微を描いた成瀬巳喜男作品の上原謙(三枚目も
上手かった)などのようにはいっていない。
ヨーコの手脚の長い竹内結子が最初に画面にでてきたときから
サバサバしているけど丸出しの色気がある。こんな女が子持ちの
中年男のこどもの世話やめしをつくりにくる魅力が「あの」(純粋にこの
映画の中だけの演技で)古田新太に感じられないのは、最大の失敗
である。よく考えてみてもここがポイントだ。どこが気に入っているのか
大人の父である古田に、こどもの心をもっているヨーコが。
 「男はつらいよ」の渥美清は、不細工だけど早い演技でチラッと
二枚目を出す。マドンナがつい「寅さんー」と惹かれていく過程が
面白くて長続きした映画である。
中年で頼りないけど一瞬に見せる人のよさや男の切れ味みたいなもの
をこの映画でどう演じようとしたのか、棒調子すぎないか。
バイプレーヤーで隅にいるだけなら柄でなんとかなるが、女房が
家出し、代わりにすぐ若い女が転がり込む役は、ミムラ演じる娘の
薫の替えられない思い出の一端を担っているのだ。
汗のかいたTシャツで喫茶店から引き上げてきたテーブルゲームを
子供とやっているだけで父親を演じてますってことにはならない。
「ウオッホホ探検隊」でやった田中邦衛ぐらいはやってほしかった。
 それからシナリオ的なことでもっとも肝心なエピソードになるヨーコと
薫のふたりだけの伊豆の海へ泊まりにでかける件であるが、
ここで少女の薫は、どういう心の状態だったか、ヨーコも古田と別れる
予感がつきまとう切ない旅。
脚本構成として薫についてのそれまでの母がいなくなったことに対する
不安と、親たち大人に対しての孤立。そしてなんだかカッコよく
見え始めたヨーコという母親代わりの女の受け入れ方。
これらを丁寧に描いていれば、あの海行きで一緒に風呂に入ら
なかったけど、ヨーコという女を容認して岩場で嫌いな貝をいっしょに
採るというエピソードが感動的にできたように思う。
必ず外して一歩引いた目で構える根岸の根岸らしさが出たとはいえるが
からっとドライでクールだけど、足はしっかりと地面についている人物を
つくるのがうまい根岸のその演出手法は、ある意味役者の実物の内容
によって決まってしまう。
クールだけれど地に足をしっかりとついたヨーコは、サイドカーは
似合わない。ヨーコと薫が出会ったばかりのとき、ヨーコが自分の
フクラハギを触って硬いだろって薫に触らせて、ラスト大人の薫は
自転車をとめて自分のフクラハキを触ってみる。
かたいなぁ・・・・
自分の足でこぐ人生は、時に息切れするが、地に足をついた丈夫な
からだをつくってくれる。大人になるということは、とりもなおさず
自前のかたい足で歩くということ。
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by stgenya | 2007-06-26 13:03 | 映画・ドラマ

ローラーとバイオリン(シリーズ処女作の頃)

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1960年「ローラーとバイオリン」。脚本アンドレイ・コンチャロフスキー。
 共同脚本と初監督がアンドレイ・タルコフスキー。
ニューヨーク国際学生映画コンクール第一位。
つまりタルコフスキーの国立映画高等学院の卒業制作。
20世紀に生きた映画作家で最も映画的な映画をつくった
映画監督がソ連から追放されたアンドレイ・タルコフスキーである。
その偉大な監督の映画処女作が本作品48分。
 映画にとって映像と音がすべてである。
美と喪失。
物語に合わせてフレームで俳優の姿を望ましい構図に切り取り、
音をつけてつなぎ合わせると映画らしくなる。
優秀なカメラマンさえいれば素人でも監督できる。
これだけ日本映画にこの10年新人監督が出て来て、どれも
延びて行かないのは、どうしてなのか。
 らしくカットをつくるのでなく、創造的な思考の元で俳優の動き
を切り取り、それをさらに物語のテーマと重なり合わせて行くという
極めて美的な活動がないと魂の通った映画にならない。
タルコフスキーほど、たえず音を映像をどうすれば創造的映画に
なるか考えながら映画をつくった人はいないのではないか。
 バイオリンを習う小学生のサーシャは、近所のいじめっ子と喧嘩
をしては負けてしまう。家の近くで道路工事をやっていた青年
セルゲイに助けられる。そして二人は友だちになり映画に行く
約束をする。親子ほど年の離れた肉体労働者と音楽家のたまご。
この区別をされるのを嫌うサーシャ。
しかし母親は、セルゲイとの付き合いを危ぶみ阻止する。
少年は、鍵を掛けられた部屋で最後に夢想する。
映画館広場で待っているセルゲイの元へ走って行く自分を。
 この単純な物語をどう映像化しているか。
タルコフスキーの構図の特徴的なものに、距離を縮めるフレーム
インがある。一人の人物が映っていてカメラの端から大きく別の
人物がFr-inする。ここに1つの関係が現れる。これに人の代わりに
風船を階段の下で出す。少年の夢や期待としての象徴がこれに
あり、のちに「鏡」では実際に宙に母親が浮く。
次にいじめっ子が出て来て、セルゲイがinして少年と友情を持つ。
又バイオリン教室での少女とサーシャとの関係をサーシャの椅子
の上に置いていったリンゴとこれを待ってる間に少女が食べる
というシチュエーションを表すのにFr-inをうまく使っている。
このように入れ込みのカットは、二つ以上の関係性を示す。
ただ彼の場合、ときどき距離が縮まっている。
バイオリン教室で練習しているサーシャを先生がワイプする。
その度に黒画面の次は、時間と距離が飛んでいる。
これを「ぼくの村は戦場だった」のファーストシーンで少年がロング
で歩いてFr-0utするとカット割らずすぐに大きくカメラ前にFr-in
する不思議なカットへとつながる。
 そして二番目が教室に行く途中で商店のショーウィンドーの鏡や
ガラスに乱反射する風景をファンタジーとして使っている。
ここでもうタルコフスキーの重要なアイテムが出てくる。
落ちたリンゴの群れ。これは次の「ぼくの村は戦場だった」の
ラストにも出てくる。実際ロシア人はリンゴをよく食べる。
これこそは、タルコフスキー的な創造性である。
日常の中の非日常。
多重に鏡にものが映るのを日常ぼくらは、経験している。
しかし彼はこれを映画のカットのモチーフとして見事に
使うのである。リンゴが落ちて映る。それを見て拾って
教室へ行く。そのリンゴを少女が食べてしまう。
最も映画的な映画「鏡」で追憶で見る祖母が飲んだ紅茶
のカップのなくなった痕に湯気が消えて行くのを静かに
捉えて祖母がいたのかいなかったのかわからなくして
しまう。この日常ある湯気の消滅を非日常の道具として
使って追憶というテーマを表現しようとしている。
これがオカルト的さえあるタルコフスキーのファンタジーである。
そしてラストの逢えないセルゲイの元へ水に濡れた(水
も重要なファクター)広場を走って行く。
ここに彼は自分の幼少期に別れた父アルセーエフとの再会
を夢想しているのではないだろうか。
彼が一環して求めている父との抱擁。そしてその距離感である。
瑞々しく詩的で美しい本作品は、タルコフスキー映画のまさしく
はじまりである。
 最後にタルコフスキーと仕事をしてきたプロデューサーの
エリック・M・ワイズベルク氏(「鏡」など)が70代で今年の三月
病気で亡くなったことをお悔やみ申し上げます。
エリックさんとは、シベリアで一緒に仕事をしたことがあり、よく
タルコフスキーの話になると、「鏡」でいつもヘリコプターを
使って草の波立ちをつくるのに大変だったと回想して笑って
いたのを私はよく覚えている。
あんなに精力的で誠実な人がタルコフスキーと一緒に仕事
していたというのは、よくのみ込める。
タルコフスキーは、まさしく自分のイメージに誠実であろうとして
いた監督だったのだから、同じような人をよぶのだろう。
モスフィルムを去った彼に対して、残った当時のロシア映画界の
スタッフたちがどれだけ尊敬の念をもっていたか。
1986年「サクリファイス」を撮ってがんで亡くなったタルコフスキー
は、ロシアだけでなく創造的映画の発展に対してどれだけ大きな
喪失だったか。
アンドレイ・タルコフスキー様。あなたの映画に対して成した業績は
まだまだぼくらにとって目標として高く存在しています。
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by stgenya | 2007-06-22 00:43 | 映画・ドラマ

長い散歩

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 06年モントリオール映画祭グランプリ作。
監督奥田瑛二の三本目。脚本山室有紀子、桃山さくら。
因みに桃山さくらは、妻の安藤和津と長女と次女の合作名。
 五十歳を過ぎて映画監督に伊丹や北野のように目覚めた。
なんで映画なんか監督するのか、もうとっくに娯楽の王座から
滑り落ちているのに。定年後絵を描いて二科展に入りましたと
いうのと同じではなく、最終おもちゃが映画監督。素人でもいい。
 ただこの「長い散歩」は素人器用ではなく、
しっかり映画を目指して、こころに届く映画言語になっていた。
 そして何より映画のもつ力を手に入れているところが幸運だ。
それは、時代性である。
去年綾香ちゃん事件を経験している日本人としてこの映画を
観るとき、5才の少女の孤独をどれだけ平地に降りて感じられるか
幼稚園で踊った天使のパンツ。そのときの翼をつけたまま毎日
を園にも行かず、高岡早紀の母親の男出入りに翻弄されながら
ひとりでアパートの外で待つ夜がある。
 そこへ校長を定年退職した緒形拳演じる松太郎が隣に引越してくる。
夜な夜な少女サチに対する暴力は、すさまじくなり、松太郎は
体を鍛えて、母親の情夫を叩きのめして、サチを連れて
山奥へ逃げていく。
おじいちゃんと青い空を見に行こう。白い鳥が飛んでいる。
ふたりの旅がはじまった。
愛知県警は、これを誘拐事件として追跡する。
途中心を閉ざしていた少女サチは、松太郎に祭りではぐれて
見つけられ「置いてかないで」と距離が縮まる。
後半高地に向かうローカル線の駅で自殺願望の孤独な青年と
出会い、サチも懐いた矢先ピストルで自死してしまう。
妻子供を顧みなかった松太郎は、懺悔の思いで青空に一番近い
山にサチと登る。青い空、白い雲、そして白い鳥ー。
サチは、自分の紙の翼で飛んだ。そして落ちてきた。
松太郎は、しっかりと自分の人生でできなかった抱擁でもって
サチを受けてとめた。
この映画が映画として成り立った場面は、こことラストの地方駅での
自首して別れを告げる松太郎とサチの群集の中の抱擁である。
はっきりとサチが本気で行かないでとすがるシーンをロングで
とりつづける。映画的一瞬だ。
 ATG映画でデビューして、熊井啓の「海と毒薬」で再び映画に
戻ってきて熊井監督に気に入られ、シャシンの現場を見てきて
体得した映画術である。
 どうして今実の子供を愛せないのだろうか。
この映画は、それに答えてはいない。虐待が虐待の親をつくる。
それは、たぶんこの映画が発想されたとき、奥田監督は家族生活
に失敗した老人が主導ではじまったと思う。だからサチの生活の
背景と問題提起が二次的になって、むしろ天使の羽をもつ不幸な
少女は、松太郎にとっては、救済として描かれる。
ラストカット刑務所から出てきた松太郎は、サチの幻影を見る。
でも現実は、今日も今もどこかで幼い子供が虐待され、まだ
小さな世界しか知らないまま命を絶たれている。
川に流され、バイクの荷物ボックスに押し込まれ、殺されている。
この戦争のない日本でしかも若い親たちが・・・・
ここから発想すると地獄のような生活から逃げられたサチにとって
松太郎は、救済なのだ。そういう映画になれたと思う。
 この『長い散歩」で感じたのは、よく出来ている。まじめな姿勢と
ブレッソンなどに通じるある種のロマン志向もいいけれど、
ただ音楽の入れ方がすごく気になったということ。あのピアノテーマ。
特に松田翔太の自殺願望の青年と少女サチがはじめて心を
交わす焼いものシーンでベタに入れずサチが青年から熱い芋を手に
取るところで音楽が入るか、転調するともっとぐっとくるのだがと思った。
しかしそれにしても緒形さんでなきゃここまで老人の旅を見せられ
なかったのではないだろうか。
久々に良かった。高岡早紀もみんな演者としてよかった。
刑事役の奥田さんだけが、監督業と兼任のためか、ステレオタイプ
の刑事になっていたのが気になった。
まあ、でも映画が映画としてよかったから贅沢はいわないけどね。
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by stgenya | 2007-06-07 11:11 | 映画・ドラマ