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憑神

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 憑神(つきがみ)。東映時代劇。
  監督:降旗康男、脚本:降旗康男、小久保利巳、土屋保文。
 原作は、ストーリーテラーの浅田次郎。
「鉄道員」から八年ぶりの降旗×浅田コンビ。カメラも木村大作。
美術の福沢が抜けているが、ほぼ同じスタッフでエンターテイメントを
ねらった。
 話は、面白いつくりで下級武士が幕末、出世を夢見て「三めぐり稲荷」
に願をかけたところが間違って不幸の「三めぐり稲荷」だったことから
とんだ事態になっていくというコミカルであるが、切なく、又武士としての
生きる分を自覚するという構造になっている。
 この面白さが制作者が原作を映画化したいと思った第一の理由であろう。
しかしこの映画を観ていて、本当に原作の面白さを素直に堪能できた人
が何人いただろう。
 この場の悪さと不完全燃焼はどこにあるのか。
満を持して望んだスタッフと妻不木主演の映画化だったはずだ。
それがなぜ不完全になったか。
まずシナリオである。次に配役の役に入る度合いが薄かったこと。
そして何より全員の熱が現場に乗らなかったことではないか。
 はじめにこの脚本で居候になっている長男の家での関が原以来
影武者の家系で兄さん(佐々木蔵之助)、母(夏木マリ)、嫁の鈴木砂羽
の基本家庭がきちんと描かれていなかった。
これは、致命傷である。長男である佐々木が自堕落であるが何ゆえか、
鈴木砂羽は、何を計算して無表情にしているのか、当然この辺がバラ
バラなのでアニメライズした夏木が飛びすぎた演技になってしまう。
本当は優秀な才をもっている妻不木の弟が不運で居候している。
でも家督の時代何かを武士の家でみんな背負っているはず。
誰もそこを本気で考えていないし、監督も演出していない。
はじめのここがスカスカだとついていくのは、難しい。
こういうのは、よくNHKの大河病であること。オールスター揃えて
みんなバラバラに力んで芝居して、気持ち悪いドラマになっている。
演出が方向を決めかねているか、能力がないかだ。
日活アクション以来のヒットメーカー降旗監督。老齢で枯れてしまったか。
粘りが見られない。脚本は、ここをわかりやすくするために同族の武家を
出して対比するか、かつての家臣か、上司を配すか、又面白い家訓を使うか
この綾を台詞なりに三人の脚本家が練ったか。疑わしい。
 そして役者たちである。時代劇初めての妻不木のココロの中は
下級武士から逃れたいという綾をどう考えたか。現代劇で光る彼も
計算しきれなかった。香川はいいが、話が進むと定型の芝居に流された。
西田、赤井の貧乏神も厄病神もよかったが妻不木と絡んだ最後に
役の相乗効果がうまく出なかった。
ただひとりよかったのが最後の死神の森迫永依だけだった。
少し臭いがこの子だけは生き生きしていた。
つまりこの台本を貰って、東映のスタジオでメイクしてライトが点った
ときにどうやろうかと俳優たちが突き詰めていない。
コメディーだからこんなところで、この前出た作品で受けたからあの辺の
感じでやりましたみたいな手抜きとは言わないが、楽な芝居をみんな
してしまった。
当然三番目の現場に熱が盛り上がらない。くだらない冗談をせいぜい
言い合うぐらいか。
本当は、監督がここを取り仕切らなければならないが、その力が落ちて
いる以上監督補が本多猪四郎ぐらいの人をプロデューサーが配さなけれ
ばならないところだ。
このくらいの演技で、この辺の演出でいいだろうという疫病神が映画の
死神になってしまう。
この話ならもっと面白くできた筈だ。その極めつけが江口洋介だ。
あんな勝海舟がいるか、あれなら江戸は火の海だ。
彼は昔坂本竜馬をやっているが、あの坂本竜馬と今度の勝海舟は
どこが違うんだろう。
ハリウッドの役者は、オフの日、仕事がない日みんなシノギを削って
いる。ちょっと名前が出るとCMとテレビで食っていける。
映画なんて時間ばかりとられて、割が合わない。そんな人はそこで
生きていけば、いい。出たくても出れないで深夜ファミレスでバイトして
いる女優志望、荷物運びの重労働をしている男優もいる。
みんな初めは、汗かいて叩かれて今の地位にきたはずだ。
こんな演技でいいなら、日本映画は、いつまでも浮かばれない。
この浅田原作の企画、誰にやらせればいいのか、若い後継者を
つくっていない不幸がここに現れている。
「バルトの楽園」の出目さんもそうだけどうまくベテランはつくるが
大ヒットの名作に仕上げるには、時がたち過ぎている。
優秀な監督、優秀な俳優、優秀なスタッフを育てないと先細りしてしまう。
悪くないしそれなりにベテランがつくっているでは駄目なんだ。
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by stgenya | 2007-08-28 17:20 | 映画・ドラマ

街のあかり

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 アキ・カウリスマキ敗者三部作完結編と名乗った「街のあかり」
Lights in the Dusk.完全な暗闇ではないのがみそ。
 フィンランドのブレッソン、フィンランドの小津ともいわれる監督。
徹底した目線とスタイルで脚本を書き映画を撮りつづける男。
一見ギャグかと思われるくらいストレートな撮影方法をもつ作家。
 まなざしと間合いの魔術師。諦観と情熱の合わせ鏡。
これがアキ・カウリスマキ映画である。
 さて新作「街のあかり」。ヤンネ・フーティアイネン扮する孤独な
男は、警備会社で勤めている。アフター5は、誰とも交われない。
むしろ職場でものけ者。しかし彼には夢がある。
 勤めている警備会社を見返して自分で会社を起業したい。
そのために講座にも通っている。
唯一そんな愚痴を話せるのが港のソーセージ・ドッグ店の女だけ
である。もちろん本気にせず聞いているだけなんだが。
そんなときに謎の女マリア・ヤルヴェンヘルミが現れる。
寂しそうだったから声かけたと一緒に映画に行って、ディスコで
踊らず、ただいて車で帰ってくるだけだったが、人生が好転し出した。
ここで軽快な音楽がかかる。酒場の前にいつも犬を繋いでいる
荒くれ三人男に勇気を出して注意するくだりである。
人生で初めて自分から行動した瞬間だった。自分は変わるんだと。
しかし結果は殴られておしまい。犬と黒人の少年が哀れんで見ていた。
そしてその恋の成り行きが宝石強盗へつながり、人生は好転どころ
かどん底へ。しかし男は、希望を捨てない。もう一度立ち直ると
ソーセージ屋の女に愚痴る。女はいつの間にかこの孤独な男が
ほおって置けない存在になっていた・・・・
 アキ映画の文法になれない人は、つい眠くなるかもしれないが、
寝てもいい。ヤンネの孤独なまなざしと薄明かりの港町の風景を
覚えてくれれば映画アキ丼を味わったことになる。
そこから始めればいい。ブレッソンのスリという映画もストーリー
よりその主人公の手の動きだけを見ていれば、その映画の虜になる。
 この映画でおもしろいのは、カット頭に人物がフレームインして
何がしかの芝居をしてフレームアウトをする、のに決してカメラが
フォローしないことだ。人物が右へ切れてもカメラはそのまま。
しばらくその場を写す。残された人間や犬や机や街のあかりが
その意味を語りだす。
注意して見て全編これが貫かれている。
普通人物が出口へ出て行ったら、カメラはつけて出口で止まって
場面転換になる。それを拘ってやらない。
犬と酒場の男の件なんか顕著で殴られるところは見せない。
これは何を意味するか。アキ・カウリスマキの言いたいことは、
人生は選択の連続。どっちの道にも同じ比重の人生があると
いいたいようである。
 誰でも一瞬一瞬選択を迫られる。どの学校に受験するか、
どの女と結婚するか、どこのメーカーの車を買うか、どこに住むか
フィクションの場合ヒーローは、不利な選択を余儀なくされても
必ず最後はいい選択をする。
ところがこの「街のあかり」のヤンネは、ことごとく悪い選択ばかり
をする。そこで警察に駆け込めば、その女を捨てればと思うのだが
そうはいかない。そんな道へ破滅の道へ進んでいく。
もうひとつの人生があるけど、どうだろうとカメラは片方の選択を
見せる。でもこれだけ最悪でも希望だけは失わない。
それがアキのテーマだ。
主人物を追わず残されたもうひとつの側をカメラが動かず切らず
見せるということは、そんな人生はもうひとつの選択があるという
ことを暗示しているように見える。
よく考えれば現実の世界は、どっちの選択がいいのかぼくたちは
判らず判断している。エリート国際弁護士になってニューヨークで
バリバリ働いても911であっという間に消えてしまうこともあるのだ。
ドンパチ派手に見せても行き着くところは希望をもちつづけられるかだ。
そんなことをカメラ目線でじっと意味して見つめられている気がする。
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by stgenya | 2007-08-07 15:13 | 映画・ドラマ