三崎千恵子さん、亡くなる

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         (夫・宮阪将嘉さんと) 
   
13日7時過ぎ鎌倉の病院にて三崎千恵子さんが死去されました。
大空千尋さん経由ですぐに連絡あり、安らかなお顔でしたとの事。
もう去年の春から一年近く病院で闘病されてやっとご自宅に帰られ
ほっとしていられるのではないでしょうか。
戦後ムーランで座長夫人を務め、金策に奔走して劇団を支えた。
にっぽんが敗戦で焼け野原になっても働きつづけた。
大正生まれのボガだった三崎さんは、芯の強い人だった。
誰にでも優しくて、泣き虫で大らかな役回りは、
単に役だけではなかった。
最後のインタビューでは、もう90になって水のように生きてる
と晴れ晴れと言っていたことを思い出す。
息が長く、人の記憶に残る名女優が又ひとり逝った。
心からご冥福をお祈りします。
          葬儀日程
      故 三崎千恵子 葬儀
  葬儀場: カルチャーBONDS藤沢(tel 0466-4127)
〒251-0052藤沢市藤沢493/生花などの注文は上記電話/
  日 程: 2月18日18時より通夜式
        19日13時30分より告別式
  喪 主: 柴 順子
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# by stgenya | 2012-02-14 22:02 | 出来事

ALWAYS三丁目の夕日'64

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「ALWAYS三丁目の夕日'64」脚本古沢良太、山崎貴、原作西岸良平、
監督山崎貴。製作ロボット。企画阿部秀司事務所。
 渋谷TOHOの二週目の平日で満席。宣伝が行き届いて各世代層の観客。
みんな押し並べて反応がよかった。隣にいたオバサンは、ロクちゃんの
結婚話で堤真一が「うちの工場へ来たときは、こんなほっぺた真っ赤でよ」
というセリフを言いだす当たりでガサゴソ鞄からハンケチを出して
おいおい泣く始末。
作り手からしたら、現場の苦労が吹っ飛ぶ僥倖の瞬間である。
 8年前の第一作からシリーズ3作目にしてやっといい形になった
ように思う。
監督も出演者もいい作品にめぐりあえる幸運は、なかなかあるもの
ではない。
今回は、明らかに俳優陣が成長して作品世界を引っ張って行った。
特に堤真一と堀北真希とが1作目より数段よくなっていた。
そして面白い発見は、吉岡君が「寅さん」で肌身で吸収した喜劇
のコツを体現していたことだった。本作の柱は、茶川と淳之介と
ロクちゃんと恋人森山未来との2本柱。そのなかでも吉岡君の
やった茶川の役は難しい。
ある意味嫌な奴。まともにやったら、ついて行けない。
義理の息子淳之介との葛藤は、そのまま作家としてのライバル関係。
それを喜劇的に人物構築することによって物語の奥深いところへ導く。
渥美清ほどはできなくても吉岡君は明らかにそのことを自覚して
発声の仕方や目線の移動を計算して茶川に丸みをつけている。
この強弱の付け方の努力が実っている。1作目よりうまくやっている。
高い声をどのセリフで出してるか注意して観られたらいいと思う。
でも原作信奉者からするとこだわり過ぎに見える。
でも山崎監督は、この人物の成長物語をやりたかった気がする。
だからわざわざロクちゃんと東京五輪で終わればいいところ
を茶川と淳之介の別れを入れて次につづく的な終わり方にし
ている。
 特撮をうまく創る山崎監督は、この映画を茶川の成長談
としてつくっている。
前半のロクちゃんのデートする件は、もっと喜劇的なカット
割りやセリフ回しがやれたのにもったいないと思ったが監督
は別に喜劇をやっているわけではないのだから、
余所から文句言っても仕方ない。
ただそれが成功するかどうかは4作目にかかっているように思う。
それから盛り上がるロクちゃんの結婚式でロクちゃんの本物
の親の扱いが省かれすぎてたのもシナリオ的に解せなかった。
 しかしデフレで失われた20年を生きる日本で元気のあった
昭和30年代をモチーフにうまく成功した映画の例と言える。
シリーズは三本目がカギ。2匹目は行けてもだいたい3作目
でつぶれる。今回の'64でそれはクリアできた。
これから昭和40年代の4作目に突入する。
「夜明けのスキャット」とGSと三島自決の時代だ。
作品としての価値は、ここからが黄金のシリーズ映画に
なるかの試金石だろう。
そしてそれは、山崎貴監督にとっても自分との慾との
戦いでもある。
かつて山田洋次が松竹のラインナップに乗りながら、
「家族」をつくりたかったように。
シネコンが全盛のこの時代、ヒットすることと作品質
をあげることの難しさ。
とりあえずいいスタートがきれたことを祝福する。
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# by stgenya | 2012-02-03 16:08 | 映画・ドラマ

美術監督千葉一彦さん、幕末太陽傳を語る


川島雄三の「幕末太陽傳」の打ち合わせで音楽の黛敏郎が「剣の舞い」で
作品のイメージを行きたいと言い出した。
川島雄三は、それがいいねとすぐに乗った。
「幕末太陽傳」の規模が大きかったので美術監督は、中村公彦さんだけだと
大変だということで若かった千葉一彦さんと二人でやった。
そしてこの音楽打ち合わせで「剣の舞い」のテンポでやるために相模屋の中
をフランキー堺が走り回るのに小春とおそめの部屋や物置部屋と階段の位置
などを設計したと言う。
 またフランキーが駆け登る階段もその段の巾を実物より低くした。
思い切り駆け上がるためにセットの階段も映画的に変えたという。
だから佐平次のフランキー堺が居残りとなってから、映画のテンポが至極
早い。居残りの癖に女郎、手代、お客と次々にそれぞれの問題を解決して
今度は逆に頼られる存在に上り詰めるという可笑しさがにじみ出て、
その瞬く間の勢いが小気味良く粋に映る。
川島雄三の落語の世界を時代喜劇に移し変えようとした意図を音楽家が
くみ、美術監督が絵としてセットをつくり画面に活かす。
映画は、その作品のイメージによって各パートがその才能の限りのアイディア
を絞り出して完成させていく。
今回80才の千葉一彦さんの話で音楽の黛敏郎が剣の舞いで幕末太陽傳を
イメージしていたというのは、貴重な証言だった。
浅草での写真撮影会での飲み会でのこの話が千葉さんの口から出て来たの
で多少聞き取りにくいが、お元気でとても若い感性でお話された。
千葉さんは日活で美術監督として熊井啓の作品や藤田敏八の「八月の濡れた砂」
などを手がけられ、大阪万博では太陽の塔をつくった人でもあります。
 映画をひとつつくるのにその作品のイメージをどう持つかがそれぞれの
持ち場でいかに重要か、そしてそのイメージを一本に決めるのが監督の作業でも
ある。川島雄三は、映画づくりにいいスタッフに恵まれた。
作品のテンポとリズムをどうつくるか、なかなか貴重で参考になる話だった。
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# by stgenya | 2012-01-17 03:00 | 人物インタビュー

日本映画見列伝・田中真澄さん、死す。

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映画史研究家の田中真澄さんが暮れに亡くなった。
映画「ムーランルージュの青春」のパンフレット原稿を書いていただいて
去年九月の封切の日にあこがれの明日待子さんと新宿で会食したことがあった。
明日さんのデビュー映画「風車」を一緒に見て、岸松雄監督は清水宏的な撮り方
をしていると解説され、そのDVDを明日さんにうれしそうにプレゼントされた。
 そんな光景がいま甦って来る。
田中真澄さんと会話したのは、今回がはじめてだった。
ただフィルムセンターや三茶のamsなどの名画上映では何回も顔をあわせた。
顔は知っているがこの人何をしている人だろうといつも疑問だった人だった。
ムーラン映画で試写から原稿書きまでの間にそのことをお話したら、
向こうも同じ感想をもっていたようだった。
しかもそれこそ遡って35年ほど前のフィルムセンターでの記憶にもどること
になった。
あのころ黒澤明特集や小津安二郎特集をやっていて毎日通い詰めた。
まだビデオもなく銀座の並木座で雨降り名画を見るしかなかったころだ。
黒澤明特集は人が多く一時間前に並んでも入れないことがあった。
今だから時効だと思うので告白するが「蜘蛛の巣城」で入れず古いフィルム
センター
のビルの外配管をよじ登って四階の窓から侵入して立ち見で見たほどだった。
そのとき必ずいたのが長髪で汚い青年の田中さんだった。
まだ映画史研究家ではなく単なる映画見青年だった。
行くといつもいて可哀そうに無職人かと訝った。
しかしあやしい映画見手は田中さんだけではなかった。
それが昼間からフィルムセンターに通っている人の常連の奇妙な人種の多
かったこと。いつもカーボーイ姿の中年の痩せたおっさんに、
冬でもランニング姿の色黒の爺さん、乞食と間違いそうなおっさんたち。
いつも着物姿のきれいな中年女。
とにかくこのひとたちは、何をしている人だろうと不思議だった。
満員の場内で最前列に座る奴は、手製の豆ランプとバインダーで映画を
観ながら速記で全カットを書きうつしているし、終わったらそんな人たち
がロビーで眼だけで会話していたり不思議な光景だった。
それがフィルムセンターだけでなく他の名画座、大井武蔵野館、文芸坐、
アテネフランセ、ams・・・などでも同じ人種とかち合う。
時代が経っても同じ顔ぶれ。
後でわかってくるのだが、その中に川本三郎、桂千穂などがいた。
まるで古い映画を見る豪傑の群れだった。
日本映画見列伝ー。
評論家になった田中さんのような人はだんだんわかってくるが
あのカーボーイハットのおっさんやランニング姿の爺さんは、
どうなったのか・・今度田中さんと知り合いになって、去年秋その人たち
のことを聞いてみた。
そしたら田中さんが「ああ。ランニング爺さん。ニシさんね。
あの会社の重役だった」
と言われて目が点になった。
あの、30年前に焼ける前のフィルムセンターに通っていた映画見たち
は、結構エライ人たちだった。
青春を映画見で過ごして会社の仕事をゆずり、晩年また映画見を
やっていた人だった。懐かしい映画見の豪傑たち。
のちに監督になった人や俳優になった人もいる。
田中真澄さんは、大学院を出てずっと北海道に帰らず在野で映画見をつづけ
小津安二郎の本を著した。
釧路育ちで親は信州上田の出でラジオドラマと映画で育ったとこぼされた。
今度お会いするとき、あの映画見の列伝の人の話をさらに聞こうとおもった
のにもう新しい年では会えないハメになってしまった。
小津と女の話、ラジオドラマ時代の作家たちなどいろいろ面白いエピソード
をご存じだった。生き字引のような人がまた一人いなくなった。
誰かが言ったが、大家が亡くなると図書館がひとつ消えるようなものだ。
田中真澄さん。ご冥福をお祈りします。
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# by stgenya | 2012-01-06 16:27 | 出来事

新しい年

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2012年

謹賀新年

新しい年になりました。

福岡の海とガスタンク。

去年から地方をめぐり、映画の現状。

ミニシアターの生き残り合戦の最中

映画は、どう届けられるべきか、考えさせられました。

劇場の厳しさを乗り越える作品と上映形態がいるように思う。

昨今の液晶大型TVとDVD,BRの普及とミニシアター苦戦とは

関係があるように思う。

自分の好きな時間に好みの映画を見ようとすると

DVDかシネコンとなってしまうのではないだろうか。

ミニシアター劇場は、サロン的なものへ移行していくように感じる。

ネットに対するオフ会のように。

何か劇場に魅力をもたせることが必要だと思う。

映画の入り口が劇場であることは、否めないのだから。

平成24年 1月2日
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# by stgenya | 2012-01-02 12:39 | 出来事

小田次男画伯の黒澤明を見た、貴重な証言


北九州在住の今年90才になられる小田次男氏は、
画学生でムーランに通っていた。
若い頃上京して絵の勉強をしていたが、
終戦後映画の道に進みたいと脚本を書いた。
そして小説も書いた。
 なかなか上手く行けず挫折。
そして役場から福岡の美術館へ就職した。
そして文楽と出会い、近松戯曲に惹かれ、画家になる。
昭和57年頃には、宇崎竜童と舞台「曾根崎神中」を
企画・製作した。
以後も歌舞伎や文楽の舞台画を描き、
国立劇場や松竹の大阪劇場などに
頼まれ劇中の場面画を描くようになる。
また月刊誌やパンフレットになって世に出る。
 その小田さんの永犬丸の家を訪ねる。
小田さんは、大正11年生まれ。昭和16年ごろ
ムーランルージュの割引に
ならんでいたら、一際背の高い男が並んでいた。
それが黒澤明だった。
それも一回でなくかなり頻繁に出会った。
ある時は、すぐ後ろだったこともある。
黒澤明がムーランの常連で割引に並んだということは、
横倉さんの本などに
書かれているが実際に会った人の証言は、はじめてだ。
助監督の黒澤明が高峰秀子と結婚をするとの噂が
一般の人まで広がっていた
ことも面白かった。
黒澤さんがまじめだったという。
今や有名な画家の小田次男さんは、戦後伊馬春部さん
とも交流が会った。
小田さん、ムーランや映画の話になったら、
いきいきとした口調になる。
黒澤明がムーランの割引に並んだのを見た人。
その証言は、貴重で記録的で宝の輝きさえ
持っている。
帰りがけ、伊馬さんの自筆の原稿のコピーを貰う。
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# by stgenya | 2011-12-19 23:20 | 人物インタビュー

三木のり一さんの祖母

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           水町庸子  池上喜代子
 
三木のり一さんに会う。
もちろん父親が三木のり平さん。
でもお婆ちゃんとお爺ちゃんがムーランの初期の大幹部俳優。
水町庸子と三國周三。そしてお母さんは、水町(三邦)瑛子で
斉藤寅次郎の「子宝夫婦」(1941)など映画や舞台で活躍。
日本橋出身の三木のり平さんは、その水町庸子の娘瑛子さんと結婚。
ここも鈴懸銀子さんと同じ日本大衆芸能のサラブレット。
のり一さんには、さらに中山呑海という日本活動写真
からトーキー映画へ移行期に活躍した名監督の血も流れている。
 ムーランの水町庸子は、可憐で明日待子が子役で
入ってきていろいろお芝居を教えたりしたトップ女優だった。
座員に手を出す癖のあった佐々木千里は、中山呑海によって
連れて来られた水町庸子に恋いこがれた。
可愛いだけだった水町庸子がムーランの黄金期の昭和10年代には、
芝居のうまい女優になっていた。
佐々木千里の想いは、ついには叶えられず
三國周三と結婚されてしまう。
貴重なアルバムをお借りしたことに感謝。
のり一さん自身もテレビの黄金期と寄席や芝居の
まっただ中にいられた人。
話が面白くあっという間の時間が過ぎた。
是非「極め付昭和芸能譚」を書いてほしい。
経験者の強さは、実際に一流の芸人と付き合っていること。
単に話を聞いたではなく、生活の一部として接していた
匂いみたいなものを知っていることって貴重である。
いや、なかなかムーランは、奥が深い。
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# by stgenya | 2011-12-16 05:53 | 人物インタビュー

岡田吉雄と忘れたボーイズ

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ムーランルージュ新宿座のバラエティの一コマ。「忘れたボーイズ」
地球の上に朝が来る。こちら陽気な忘れたボーイズ♪
もちろん「あきれたボーイズ」を捩ってのバンド。
名物コーナーで俳優たちが自由にのびのびと歌っていた。
岡田吉雄と山口正太郎らがメインだった「忘れたボーイズ」
この名バンドに有島一郎が加入して舞台で歌っていた。
昭和14年の出来事。
その珍しい写真が岡田吉雄さんの遺族から出て来た。
どんな歌を歌っていたのか。
数十枚あるこの演奏シーンの写真はどれも楽しそう。
戦前の幹部俳優で戦後途中からサラリーマンに転身して
子供を育てた岡田さん。
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新宿歴史博物館に寄贈された岡田さんのものは多く
さらに丁寧に保管されていた。
晩年岡田さんは、ムーランをなんとか残そうとされていた姿が
目に浮かぶ。
それにしても「忘れたボーイズ」の歌が聞きたい。
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# by stgenya | 2011-12-03 19:13 | 人物インタビュー

大嶋拓監督による青江舜二郎伝「龍の星霜」

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大嶋拓著による父青江舜二郎の評伝「龍の星霜」を読む。
親の人生を探求することは、そのまま子のルーツを探ることでもある。
それは、もしかしたら大嶋拓監督作の映画「カナカナ」や「火星の我が家」
にそのDNAが色として出ているのかもしれない。
秋田の新聞に連載されたこの「龍の星霜」は、新鮮な発見があった。
異端の劇作家・青江舜二郎。
明治37年秋田生まれ。一高東大を出て小山内薫に師事。
本名大嶋長三郎。23才で戯曲「火」(新思潮)発表。
築地小劇場の新劇運動の草分けに参加。
1958年「法隆寺」で岸田戯曲賞。
鎌倉アカデミアや日大で講師つとめたり(津上忠氏は教え子)、
テレビ草創期に番組づくりに関わる。
また昭和36年の第三次ムーランで野末陳平さんらと
芝居を書く。小崎政房らが中心になってやったが半年で終了。
この、当時新人俳優だった財津一郎も加わった第三次ムーランがムーラン復興
の実質的な最後となる。
そしてこの前に久保田万太郎との間で盗作裁判に巻き込まれる件は圧巻。
戦前に青江の書いた「一葉舟」を昭和34年に演劇界の重鎮久保田万太郎が
「一葉伝」として盗作をする。これに抗議して裁判沙汰になった。
大家にして作家の高齢と弟子筋だとの思い込みと気のゆるみ・・・
この辺の記述は、あまり知られていないことでハラハラする。
この時久保田を弁護したのが直弟子の阿木翁助。しかし青江が勝訴する。
そして最終的に仲裁に入ったのが菊岡久利だった。
ここでかつてムーラン脱退事件で対立した阿木と菊岡が絡んでいるのに
不思議な感じを覚える。
ただこの事件で青江氏は、演劇界から外れてしまう。
晩年は、竹久夢二や石原莞爾、宮沢賢治などの評伝執筆で評価を得る。
昭和58年78才で永眠。
 しかし大嶋拓氏に「ムーランー」の映画がきっかけでお会いしてこの本
の存在を知らされるまでは、自分は演劇人ではないので青江舜二郎氏も
知らなかった。「一葉舟」盗作事件も知らなかった。
今回これを読んで志が高くてもまっすぐに歩めない運命があったことを知った。
この秋田から出て来た作家魂がどこかに灼けボックリのようにくすぶっている
ように思えてならない。それは又、子孫や青江の芝居に感銘した人の心の
奥深いところにホロホロと燃えている気がする。
 それにしても血のつながりとは不思議なもんだ。
子が親を疎う人もあれば、親の偉大さに敬う人もある。
でも親殺しもまた親の存在の発見であるし、
それは取りも直さず自分の発見でもある。
この「龍の星霜」(春風社)は、父親への愛に満ちた評伝だった。
amazon「龍の星霜」
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# by stgenya | 2011-11-28 03:13 | 文学

この人は、誰れ? 教えて下さい。

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9月18日の新宿歴史博物館での「ムーランシンポジウム」のときに
客席にいた老紳士がニコニコして私にこの写真を手渡した。
そして会も終わり、そのひとはいない。
誰だったのか・・・何を伝えたかったのか・・・
なぞの事件ー。
仕方なくカバンの中のファイルにしまってあったのだが
誰がなんの目的でくれたのか、わからない。
たぶんムーラン関係者の人だとは思うのだけれど
右のベレー帽の老人が眼鏡の酔いつぶれた老人を介抱している。
伊馬春部さんのようでもあるが、わからない。
未だになぞの写真と事件。
これが誰だかわかった方は、連絡下さい。
よろしくお願いします。
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# by stgenya | 2011-11-23 12:22 | 出来事