アーティスト

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ARTIST監督ミシェル・アザナヴィシウス、制作トーマス・ラングマン
 渋谷で日曜の朝一番で50人の観客と観る。
キレイな絵。キレイな立ち振る舞い。キレイな音楽。
そして無駄の無いカッティング。モノクロ無声映画。1920年代の時代劇。
 1927年から始まり1930年代へと物語が綴られる。
ちょうどそれは、無声映画からトーキーへ映画が変わった時代であり、
世界恐慌の世の中でもあった。チャップリンの「街の灯」が発表された
時代でもあった。
 何よりジャン・デュジャルダンというバレンチノやフェアバンクスを
思わせる俳優の大人の表現力にこの映画は支えられている。
こんな役者がいたんだと驚く。ヒロインのペレニス・ベジョも好演して
いるがもう少し美人だったらよかったと思った。
監督の女房らしいので小さい声で言った方がいいのだろうが・・・
 物語は、大スターのジョージ(デュジャルダン)が素人の女の子と出会い
メークのアドバイスをして共演し、さらにトーキー映画ではこのペレニス
が女優として成長して行く。逆にジョージの方は、無声活劇にこだわり
凋落してゆく。このふたりの恋心も上り下がりしてあっという間のラスト
へ。ふたりを救う足さばき。見終わって暑い息吹を感じる映画である。
主人公ジョージの運命が転換するシークェンスでよく階段が出て来る。
声のない映画を立体的に見せるなかなか象徴的な発想だ。
それからこの映画を観ていて痛感させられたのは、俳優という存在の
重要度。眉の動きひとつ、視線の移動のひとつ、指や足の運びひとつ・・
どれをとっても俳優の表現力に映画というのは、支えられていることが
わかる。デュジャルダンのそれは、パーフェクトだった。
まるで教科書のような演技プラン。無声映画を退屈させない力を感じた。
1時間41分無声映画(ラストで声が一カ所出る)なのにまったく飽きさせない。
犬の使い方もコメディー・タッチでうまく作品にハマっている。
映画がかつて持っていた粋で勇壮で前向きさ加減がこの映画の芯に
なっている。
 ラジオの映画評でこの映画で寝ていた人がいたと言っていたが、
そんな奴は、映画評を語る資格がないと思う。
こんな愉快で心温まる無声映画で寝るようでは、よっぽど心が病んでいる
のではないだろうか。
ぜひこの映画はもっと観られるべき作品であるので劇場へ足を運ばれたし。
3D華やかなシネコン時代に一服の清涼剤になること間違いなし。
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# by stgenya | 2012-04-16 05:22 | 映画・ドラマ

川井みどりさんが語る三崎千恵子


笹谷みどりさん。女優としては川井みどりとして寅さん映画の常連。
三崎千恵子さんはムーラン解散後に大道具や結髪に大きな借金が残った。
昭和26年から7年間、それを逃げずに払いつづけた。
それも返すお金が少なかったのでぞうきんや帚をもって
掃除させてくださいと三崎さんは押し掛けた。
しかし
断られていくうちに中に入れさせてもらって手伝いをするまでになる。
この発想は、三崎さんしか出来ないもの。
地足のしっかりとしたひとの元は、ここにあったのかと感心した。
また
みどりさんは、山田組の裏話もしてくれた。
「男はつらいよ」の撮影中、撮影が進展しないとき
山田洋次が監督部屋にこもって台本を何回も何回も読むらしい。
それもそれぞれの役を自分で声色をつかって音読する。
側で聴いていたみどりさんからすると、その音読の芝居がすばらしく
午前中の現場で俳優が注意されたのがなぜかそれを聞いていて
わかったと言う。
自分の書いたホンを一日中でも何回も何回も読む。
現場で俳優やスタッフにきびしいが自分にもきびしい。
それが山田洋次監督のスタンスらしい。
それにしてもみどりさんの祖父が富岡マサシという無声映画時代
の俳優で溝口健二が日活向島へ入るきっかけをつくったと言う。
俳優になろうと溝口を誘った。富岡さんは女形だった。
衣笠貞之助がそうだったように。
ただ溝口は、足が悪て俳優からすぐにスタッフの方へ転向して
監督になった。富岡さんが誘わなかったら、溝口健二はなかった。
新藤兼人が「ある映画監督の生涯」の時インタビューに来たが
編集で割愛され、本の方にその話が載っている。
しかし撮影所というのは、不思議なところである。
川井みどりさんのようにフリーでちょい役とはいえ、
たえず出入りしていて後半の寅さん映画に何らかの役で出てる。
撮影所にはこういう不思議な存在の人がときどきいる。
こういう話を聞くとあの、大船撮影所をなぜ潰したのか
慚愧にたえなくなる。
昭和は遠くなるように、映画撮影所も遠くなる思いがする。
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# by stgenya | 2012-03-21 04:45 | 人物インタビュー

ヒューゴの不思議な発明

'HUGO'ヒューゴの不思議な発明
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 原作B・セルジュニック脚本ジョン・ローガン監督マーティン・スコセッシ
出演エイサ・バターフィールド、クロエ・C・モレッツ、ベン・キングズレー
製作GKフィルムズ、インフイニタム・ニヒル。出資にジョニー・デップ
 1930年のパリ。リヨン駅から始る映画と父と子のつながりの物語。
スコセッシがはじめて3Dに試みた映画愛に満ちた正攻法のドラマになっている。
ターミナル駅という巨大な人間の現実世界の裏側でせっせと時計の
調整を一人でやっている孤児ヒューゴの心の支えは、亡き父の残した
機械人形を完成させること。これが物語の柱になっている。
そしてヒューゴの屋根裏部屋の散歩者のように覗き見る駅で働く人たち
の生態素描が設定として面白い。しかしこの駅の表舞台に姿を表す時は、
泥棒小僧。毎日のパンを盗み、店の商品も失敬する。そんな表との接触で
おもちゃ売店のおじさんと少女イザベルに遭遇する。
そしてここから父の残した機械人形のノートとおもちゃ店のおじさんとの
やり取りから映画初期に活躍したジョルジュ・メリエスがその売店の
おじさんだったという帰結に向かう。
 高校生の時に読んだ岩波新書の「映画藝術」などに書かれていたメリエス
や最初のリュミエール兄弟の「列車の到着」や「工場の入口」などが
出て来てとても懐かしかった。
その映画史とその時代に世界ではじめてSFXを考案した映画人・メリエス。
そしてそんなメリエスが没落して晩年は、リヨン駅の売店で働いたなんて
驚きだった。スコセッシがメリエスへの敬意をささげる姿勢に関心。
その映画狂たるスコセッシの作戦は、ファーストシーンから組まれている。
ヒューゴが時計部屋から覗く駅の活写は、無声映画になっている。
つまり売店のおじさんとイザベルの会話の声は、当然聞こえない。そして
次に鉄道保安官とヒューゴの追っかけは、無声映画の定番。しかも
これは、私見だがこの背の高い保安官サシャ・バロン・コーエンの姿
が戦前のルノワールなどのフランス映画の常連のガストン・モドに似せ
ているように思った。懐かしい愛すべき怪優ー。(偶々かもしれないが)
 ただ3Dは、心理描写に向かないといわれるがここでも孤児の淋しさ
や売店主のおじさんパパジョルジュの苦渋などの表現では、気がちって
脚本構成の組方のズレと相まって少し難しい気がした。
つまり映画研究者がラストに出て来てヒューゴの心の拠り所だった
機械人形の秘密がメリエスの愉快な短編作品群に結びつけてくれるが
ここの部分にヒューゴの父親がそのメリエスの「月世界旅行」に
どれだけの愛情や情熱があったかを語られていれば、ヒューゴの目で
はじまるこの物語の感動がもっと深まったと思ってもったいない。
それからCGの欠点がこの映画でも現れた。群衆カットにそれが顕著。
列車に轢かれそうになって助かるシーンや駅構内で保安官にヒューゴ
が捕まるカットでも周りの群衆の反応が切迫感がないのだ。
大俯瞰から降りて来るカットや長い長回しでもCGだと緊張感が抜けて
いる。それはブリットのカーチェイスと同じ現象だと言える。
しかしそれにしてもちょうどこのころ日本では、目玉の松ちゃんや中山呑海、
伊藤大輔などが京都大将軍で活躍していた。
にっぽん版ヒューゴがあってもおかしくない。
映画への愛、先人への敬意がなさ過ぎるのがいまの平成にっぽんの
情況である。
まあ、シネコンで満員御礼は、スコセッシ教授にはまずは良かった。
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# by stgenya | 2012-03-12 06:19 | 映画・ドラマ

三崎千恵子さん、亡くなる

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         (夫・宮阪将嘉さんと) 
   
13日7時過ぎ鎌倉の病院にて三崎千恵子さんが死去されました。
大空千尋さん経由ですぐに連絡あり、安らかなお顔でしたとの事。
もう去年の春から一年近く病院で闘病されてやっとご自宅に帰られ
ほっとしていられるのではないでしょうか。
戦後ムーランで座長夫人を務め、金策に奔走して劇団を支えた。
にっぽんが敗戦で焼け野原になっても働きつづけた。
大正生まれのボガだった三崎さんは、芯の強い人だった。
誰にでも優しくて、泣き虫で大らかな役回りは、
単に役だけではなかった。
最後のインタビューでは、もう90になって水のように生きてる
と晴れ晴れと言っていたことを思い出す。
息が長く、人の記憶に残る名女優が又ひとり逝った。
心からご冥福をお祈りします。
          葬儀日程
      故 三崎千恵子 葬儀
  葬儀場: カルチャーBONDS藤沢(tel 0466-4127)
〒251-0052藤沢市藤沢493/生花などの注文は上記電話/
  日 程: 2月18日18時より通夜式
        19日13時30分より告別式
  喪 主: 柴 順子
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# by stgenya | 2012-02-14 22:02 | 出来事

ALWAYS三丁目の夕日'64

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「ALWAYS三丁目の夕日'64」脚本古沢良太、山崎貴、原作西岸良平、
監督山崎貴。製作ロボット。企画阿部秀司事務所。
 渋谷TOHOの二週目の平日で満席。宣伝が行き届いて各世代層の観客。
みんな押し並べて反応がよかった。隣にいたオバサンは、ロクちゃんの
結婚話で堤真一が「うちの工場へ来たときは、こんなほっぺた真っ赤でよ」
というセリフを言いだす当たりでガサゴソ鞄からハンケチを出して
おいおい泣く始末。
作り手からしたら、現場の苦労が吹っ飛ぶ僥倖の瞬間である。
 8年前の第一作からシリーズ3作目にしてやっといい形になった
ように思う。
監督も出演者もいい作品にめぐりあえる幸運は、なかなかあるもの
ではない。
今回は、明らかに俳優陣が成長して作品世界を引っ張って行った。
特に堤真一と堀北真希とが1作目より数段よくなっていた。
そして面白い発見は、吉岡君が「寅さん」で肌身で吸収した喜劇
のコツを体現していたことだった。本作の柱は、茶川と淳之介と
ロクちゃんと恋人森山未来との2本柱。そのなかでも吉岡君の
やった茶川の役は難しい。
ある意味嫌な奴。まともにやったら、ついて行けない。
義理の息子淳之介との葛藤は、そのまま作家としてのライバル関係。
それを喜劇的に人物構築することによって物語の奥深いところへ導く。
渥美清ほどはできなくても吉岡君は明らかにそのことを自覚して
発声の仕方や目線の移動を計算して茶川に丸みをつけている。
この強弱の付け方の努力が実っている。1作目よりうまくやっている。
高い声をどのセリフで出してるか注意して観られたらいいと思う。
でも原作信奉者からするとこだわり過ぎに見える。
でも山崎監督は、この人物の成長物語をやりたかった気がする。
だからわざわざロクちゃんと東京五輪で終わればいいところ
を茶川と淳之介の別れを入れて次につづく的な終わり方にし
ている。
 特撮をうまく創る山崎監督は、この映画を茶川の成長談
としてつくっている。
前半のロクちゃんのデートする件は、もっと喜劇的なカット
割りやセリフ回しがやれたのにもったいないと思ったが監督
は別に喜劇をやっているわけではないのだから、
余所から文句言っても仕方ない。
ただそれが成功するかどうかは4作目にかかっているように思う。
それから盛り上がるロクちゃんの結婚式でロクちゃんの本物
の親の扱いが省かれすぎてたのもシナリオ的に解せなかった。
 しかしデフレで失われた20年を生きる日本で元気のあった
昭和30年代をモチーフにうまく成功した映画の例と言える。
シリーズは三本目がカギ。2匹目は行けてもだいたい3作目
でつぶれる。今回の'64でそれはクリアできた。
これから昭和40年代の4作目に突入する。
「夜明けのスキャット」とGSと三島自決の時代だ。
作品としての価値は、ここからが黄金のシリーズ映画に
なるかの試金石だろう。
そしてそれは、山崎貴監督にとっても自分との慾との
戦いでもある。
かつて山田洋次が松竹のラインナップに乗りながら、
「家族」をつくりたかったように。
シネコンが全盛のこの時代、ヒットすることと作品質
をあげることの難しさ。
とりあえずいいスタートがきれたことを祝福する。
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# by stgenya | 2012-02-03 16:08 | 映画・ドラマ

美術監督千葉一彦さん、幕末太陽傳を語る


川島雄三の「幕末太陽傳」の打ち合わせで音楽の黛敏郎が「剣の舞い」で
作品のイメージを行きたいと言い出した。
川島雄三は、それがいいねとすぐに乗った。
「幕末太陽傳」の規模が大きかったので美術監督は、中村公彦さんだけだと
大変だということで若かった千葉一彦さんと二人でやった。
そしてこの音楽打ち合わせで「剣の舞い」のテンポでやるために相模屋の中
をフランキー堺が走り回るのに小春とおそめの部屋や物置部屋と階段の位置
などを設計したと言う。
 またフランキーが駆け登る階段もその段の巾を実物より低くした。
思い切り駆け上がるためにセットの階段も映画的に変えたという。
だから佐平次のフランキー堺が居残りとなってから、映画のテンポが至極
早い。居残りの癖に女郎、手代、お客と次々にそれぞれの問題を解決して
今度は逆に頼られる存在に上り詰めるという可笑しさがにじみ出て、
その瞬く間の勢いが小気味良く粋に映る。
川島雄三の落語の世界を時代喜劇に移し変えようとした意図を音楽家が
くみ、美術監督が絵としてセットをつくり画面に活かす。
映画は、その作品のイメージによって各パートがその才能の限りのアイディア
を絞り出して完成させていく。
今回80才の千葉一彦さんの話で音楽の黛敏郎が剣の舞いで幕末太陽傳を
イメージしていたというのは、貴重な証言だった。
浅草での写真撮影会での飲み会でのこの話が千葉さんの口から出て来たの
で多少聞き取りにくいが、お元気でとても若い感性でお話された。
千葉さんは日活で美術監督として熊井啓の作品や藤田敏八の「八月の濡れた砂」
などを手がけられ、大阪万博では太陽の塔をつくった人でもあります。
 映画をひとつつくるのにその作品のイメージをどう持つかがそれぞれの
持ち場でいかに重要か、そしてそのイメージを一本に決めるのが監督の作業でも
ある。川島雄三は、映画づくりにいいスタッフに恵まれた。
作品のテンポとリズムをどうつくるか、なかなか貴重で参考になる話だった。
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# by stgenya | 2012-01-17 03:00 | 人物インタビュー

日本映画見列伝・田中真澄さん、死す。

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映画史研究家の田中真澄さんが暮れに亡くなった。
映画「ムーランルージュの青春」のパンフレット原稿を書いていただいて
去年九月の封切の日にあこがれの明日待子さんと新宿で会食したことがあった。
明日さんのデビュー映画「風車」を一緒に見て、岸松雄監督は清水宏的な撮り方
をしていると解説され、そのDVDを明日さんにうれしそうにプレゼントされた。
 そんな光景がいま甦って来る。
田中真澄さんと会話したのは、今回がはじめてだった。
ただフィルムセンターや三茶のamsなどの名画上映では何回も顔をあわせた。
顔は知っているがこの人何をしている人だろうといつも疑問だった人だった。
ムーラン映画で試写から原稿書きまでの間にそのことをお話したら、
向こうも同じ感想をもっていたようだった。
しかもそれこそ遡って35年ほど前のフィルムセンターでの記憶にもどること
になった。
あのころ黒澤明特集や小津安二郎特集をやっていて毎日通い詰めた。
まだビデオもなく銀座の並木座で雨降り名画を見るしかなかったころだ。
黒澤明特集は人が多く一時間前に並んでも入れないことがあった。
今だから時効だと思うので告白するが「蜘蛛の巣城」で入れず古いフィルム
センター
のビルの外配管をよじ登って四階の窓から侵入して立ち見で見たほどだった。
そのとき必ずいたのが長髪で汚い青年の田中さんだった。
まだ映画史研究家ではなく単なる映画見青年だった。
行くといつもいて可哀そうに無職人かと訝った。
しかしあやしい映画見手は田中さんだけではなかった。
それが昼間からフィルムセンターに通っている人の常連の奇妙な人種の多
かったこと。いつもカーボーイ姿の中年の痩せたおっさんに、
冬でもランニング姿の色黒の爺さん、乞食と間違いそうなおっさんたち。
いつも着物姿のきれいな中年女。
とにかくこのひとたちは、何をしている人だろうと不思議だった。
満員の場内で最前列に座る奴は、手製の豆ランプとバインダーで映画を
観ながら速記で全カットを書きうつしているし、終わったらそんな人たち
がロビーで眼だけで会話していたり不思議な光景だった。
それがフィルムセンターだけでなく他の名画座、大井武蔵野館、文芸坐、
アテネフランセ、ams・・・などでも同じ人種とかち合う。
時代が経っても同じ顔ぶれ。
後でわかってくるのだが、その中に川本三郎、桂千穂などがいた。
まるで古い映画を見る豪傑の群れだった。
日本映画見列伝ー。
評論家になった田中さんのような人はだんだんわかってくるが
あのカーボーイハットのおっさんやランニング姿の爺さんは、
どうなったのか・・今度田中さんと知り合いになって、去年秋その人たち
のことを聞いてみた。
そしたら田中さんが「ああ。ランニング爺さん。ニシさんね。
あの会社の重役だった」
と言われて目が点になった。
あの、30年前に焼ける前のフィルムセンターに通っていた映画見たち
は、結構エライ人たちだった。
青春を映画見で過ごして会社の仕事をゆずり、晩年また映画見を
やっていた人だった。懐かしい映画見の豪傑たち。
のちに監督になった人や俳優になった人もいる。
田中真澄さんは、大学院を出てずっと北海道に帰らず在野で映画見をつづけ
小津安二郎の本を著した。
釧路育ちで親は信州上田の出でラジオドラマと映画で育ったとこぼされた。
今度お会いするとき、あの映画見の列伝の人の話をさらに聞こうとおもった
のにもう新しい年では会えないハメになってしまった。
小津と女の話、ラジオドラマ時代の作家たちなどいろいろ面白いエピソード
をご存じだった。生き字引のような人がまた一人いなくなった。
誰かが言ったが、大家が亡くなると図書館がひとつ消えるようなものだ。
田中真澄さん。ご冥福をお祈りします。
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# by stgenya | 2012-01-06 16:27 | 出来事

新しい年

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2012年

謹賀新年

新しい年になりました。

福岡の海とガスタンク。

去年から地方をめぐり、映画の現状。

ミニシアターの生き残り合戦の最中

映画は、どう届けられるべきか、考えさせられました。

劇場の厳しさを乗り越える作品と上映形態がいるように思う。

昨今の液晶大型TVとDVD,BRの普及とミニシアター苦戦とは

関係があるように思う。

自分の好きな時間に好みの映画を見ようとすると

DVDかシネコンとなってしまうのではないだろうか。

ミニシアター劇場は、サロン的なものへ移行していくように感じる。

ネットに対するオフ会のように。

何か劇場に魅力をもたせることが必要だと思う。

映画の入り口が劇場であることは、否めないのだから。

平成24年 1月2日
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# by stgenya | 2012-01-02 12:39 | 出来事

小田次男画伯の黒澤明を見た、貴重な証言


北九州在住の今年90才になられる小田次男氏は、
画学生でムーランに通っていた。
若い頃上京して絵の勉強をしていたが、
終戦後映画の道に進みたいと脚本を書いた。
そして小説も書いた。
 なかなか上手く行けず挫折。
そして役場から福岡の美術館へ就職した。
そして文楽と出会い、近松戯曲に惹かれ、画家になる。
昭和57年頃には、宇崎竜童と舞台「曾根崎神中」を
企画・製作した。
以後も歌舞伎や文楽の舞台画を描き、
国立劇場や松竹の大阪劇場などに
頼まれ劇中の場面画を描くようになる。
また月刊誌やパンフレットになって世に出る。
 その小田さんの永犬丸の家を訪ねる。
小田さんは、大正11年生まれ。昭和16年ごろ
ムーランルージュの割引に
ならんでいたら、一際背の高い男が並んでいた。
それが黒澤明だった。
それも一回でなくかなり頻繁に出会った。
ある時は、すぐ後ろだったこともある。
黒澤明がムーランの常連で割引に並んだということは、
横倉さんの本などに
書かれているが実際に会った人の証言は、はじめてだ。
助監督の黒澤明が高峰秀子と結婚をするとの噂が
一般の人まで広がっていた
ことも面白かった。
黒澤さんがまじめだったという。
今や有名な画家の小田次男さんは、戦後伊馬春部さん
とも交流が会った。
小田さん、ムーランや映画の話になったら、
いきいきとした口調になる。
黒澤明がムーランの割引に並んだのを見た人。
その証言は、貴重で記録的で宝の輝きさえ
持っている。
帰りがけ、伊馬さんの自筆の原稿のコピーを貰う。
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# by stgenya | 2011-12-19 23:20 | 人物インタビュー

三木のり一さんの祖母

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           水町庸子  池上喜代子
 
三木のり一さんに会う。
もちろん父親が三木のり平さん。
でもお婆ちゃんとお爺ちゃんがムーランの初期の大幹部俳優。
水町庸子と三國周三。そしてお母さんは、水町(三邦)瑛子で
斉藤寅次郎の「子宝夫婦」(1941)など映画や舞台で活躍。
日本橋出身の三木のり平さんは、その水町庸子の娘瑛子さんと結婚。
ここも鈴懸銀子さんと同じ日本大衆芸能のサラブレット。
のり一さんには、さらに中山呑海という日本活動写真
からトーキー映画へ移行期に活躍した名監督の血も流れている。
 ムーランの水町庸子は、可憐で明日待子が子役で
入ってきていろいろお芝居を教えたりしたトップ女優だった。
座員に手を出す癖のあった佐々木千里は、中山呑海によって
連れて来られた水町庸子に恋いこがれた。
可愛いだけだった水町庸子がムーランの黄金期の昭和10年代には、
芝居のうまい女優になっていた。
佐々木千里の想いは、ついには叶えられず
三國周三と結婚されてしまう。
貴重なアルバムをお借りしたことに感謝。
のり一さん自身もテレビの黄金期と寄席や芝居の
まっただ中にいられた人。
話が面白くあっという間の時間が過ぎた。
是非「極め付昭和芸能譚」を書いてほしい。
経験者の強さは、実際に一流の芸人と付き合っていること。
単に話を聞いたではなく、生活の一部として接していた
匂いみたいなものを知っていることって貴重である。
いや、なかなかムーランは、奥が深い。
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# by stgenya | 2011-12-16 05:53 | 人物インタビュー